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赤いシリーズ

赤い痕

作者: 早川 りな

「暑い……」

 あまりの暑さで目が覚めた。

 夏休みなのに六時半に起きちゃったよ。ああ、損した気分。

 水が飲みたくて、キッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。ペットボトルを掴んだ瞬間、自分の左手首の異変に気がついた。

「なに、これ……」

 冷蔵庫から漏れる光に照らされた手首には、人の手の痕があった。かなりの強さで握らないと、こんなにはっきりと赤い痕はつかない。昨日、寝る前にこんな跡はなかった。よくわからない赤い痕をじっと見つめる。


――ピーッ、ピーッ


「えっ、あっ」

 冷蔵庫から鳴り響く機械音で現実に引き戻された。なにも取らずに急いで扉を閉める。冷蔵庫からはなんの音もしないはずなのに、私の耳の奥には警告音が響いていた。

 洗面所へ行き、手首を冷やした。水で冷やすと赤みがだんだんと薄くなり、痕は綺麗になくなった。水には浄化作用があるって話を聞いたことがある。案外本当かもしれない。

 部屋に戻り二度寝でもしようと、ベッドに横になった。でも眠れなかった。さっき水で冷やした部分が、どんどん熱を持っていく。左手首に意識が集中してしまう。心臓がもう一つあるような気がした。

「もう、起きよう」

 カーテンを開けると、窓に信じられないものがあった。それは手の痕だ。呆然とした。ここは十三階建てのマンション、その最上階。窓の外には人が通れる場所なんてない。そして頭には赤い痕がよぎった。この手の痕とあの赤い痕が同一人物のものかもしれない。そう思うと怖くて、カーテンを閉めた。

 私は自分の部屋の窓ガラスを見たくなくて、夜遅くまでずっとリビングにいた。でも「お母さんにも寝なさい」と言われてしまい、部屋に戻った。まだ手の痕があるんじゃないか、と考えてしまう。とても怖くて確認ができない。なるべく窓のほうには目を向けず、ベッドに入った。

 ダメだ、気になって眠れない。意を決して、勢いよくカーテンを開けた。そこにはあの痕はなかった。ほっとしたのと同時に不気味だった。朝ははっきりと手の痕があったのに、勝手に消えるほうが不自然だ。

 あの手はいったいなんなのか。もう、なんだかわからないままでもいい。ただ、二度とあの手が現れなければそれでいい、と思った。

 昨日と同じ熱帯夜。扇風機を自分のほうへ向けて、浅い眠りについた。


 暗い、どこ、ここ……。ヴァイオリンの音色が響いていた。でも、どこか歪んだ音だった。頭にガンガン響く。頭が痛い。胸が苦しい。


――はあ、はあ、はあ……。


 息ができない。なんなの、なんなのよ。助けて……。

 私は頭を抱え込み、しゃがんだ。視界に左手首が入った。そこには真っ赤な手の痕があった。手首が痛い。


――欲しい……。その腕が、その腕が……。


 誰の声? 男の人の声だ。私の腕が欲しい、それはダメ。私の夢が叶わなくなる。ヴァイオリンができなくなる。

「いや、絶対にあげない!!」

 気がつくと、叫んでいた。


 目を開けると自分の部屋だった。扇風機は止まっていて、部屋には暑い空気が充満している。私の荒い息遣いが暑い空気に溶け込んでいた。Tシャツが汗でべったり体に張りついていて、寝汗にしては尋常じゃない量だった。

 汗を流したくて、お風呂場に行く。ライトをつけると、光の強さで目を細めた。明るさに慣れて、目をしっかり開ける。洗面所の鏡に映った自分の左手首に視線が向かった。昨日よりも濃い赤い痕があった。左手を自分の目の前に持っていく。その痕はまるで誰かが赤い絵の具で悪戯書きをしたみたいに、はっきりと存在していた。

 私は服を着たままお風呂場に飛び込み、シャワーを掴む。服が濡れることも構わず、赤い痕に冷水をかけた。昨日よりは時間がかかったが、赤い痕は消えてなくなった。それからシャワーを浴び、服を着替えた。呆然としながらリビングへ行き、ソファに座った。

 あの夢はどう考えても、赤い痕と関係している。ヴァイオリンの音、私の腕が欲しい、男の人。たぶん、ヴァイオリニストを目指していた、あるいはプロのヴァイオリニストの男の人が、なんらかの理由で亡くなった。ヴァイオリンへの情熱が無念として残ってしまう。そこで同じヴァイオリニストを目指している私の存在を知って、私の腕を欲しいと思っているんだ。そんなところだろう。あの男の人と私の接点はなに? 知り合いにそんな人はいない。

 結局、私はどうすべきかわからないまま、数週間が過ぎた。その間もあの悪夢を毎日見て、冷水で赤い痕を消すということを繰り返していた。ただ、ひとつ違ったことがあった。それは赤い痕が消えても、常に誰かに左手首を掴まれている感覚があった。そして、時々引っ張られる感じがした。そのたびに自分の左手を心臓の前へ持っていき「私は生きてる」と心で思った。すると引っ張られる感覚だけはなくなった。


 高校二年生の私はヴァイオリニストになるため、来年は音大受験を控えている。そのため志望の音大のオープンキャンパスに行き、大学見学に励んでいた。

 A音大を見学しているとき、ある噂を聞いた。それは音楽の厳しさを物語っていた。A音大は三年前に大学を移転し、今は都内に校舎がある。そして、旧校舎があった土地には音楽堂を建設するらしい。ただ、その建設がいっこうに進まない。それは旧校舎の裏にある、大木のせいらしい。その大木はA音大内では『首吊りの木』と呼ばれていた。

 音大を受験する人は多かれ少なかれ天才扱いされて育った者も多い。でも、それは井の中の蛙。音大生のレベルの高さによって、自分が凡人であることに気づく。それでも努力を続ける。しかし、天才と呼ばれるような学生を追い越すことは愚か、追いつくこともできない。ストレスやプレッシャーで精神はボロボロになる。そして『首吊りの木』へと足を向けてしまう生徒が、数年に一人の割合で現れるらしい。運よく、誰かが見つけて止めることもあるらしいが、ほとんどは絶望と孤独を抱えてこの世を去っていく。

 その大木を伐採しようとしても、その伐採に関わった人たちが謎の怪我や事故に遭うため、亡くなった音大生の祟りだ、という噂が流れているらしい。

 その旧校舎があった土地は最近引っ越した、私の母方の祖父母の家の近くだった。


 そしてあることを私は思い出した。初めて手首に赤い痕ができた日の前日、祖父母の家に遊びに行っていたのだ。そして空き地でヴァイオリンの練習をしていた。その空き地には大きな木が一本あった。

 私は祖父母に電話をして、あの空き地がA音大の旧校舎があった場所だったことを確認した。これで全てが繋がった。怖がりの私では考えられないが、なぜか行かなければならないと思った。祖父母に今度の土日にまた遊びに行くことを、電話で伝えた。

 ヴァイオリンを持って、祖父母の家へ行く。祖父母の家が近づくにつれて、左手首がジンジンする。いつも以上に手首を掴む力が強い。心臓がバクバクしている。私、大丈夫かな……。そんな不安と手首の違和感を抱えながら電車を降りた。

 祖父母の家に行く前に、あの空き地を目指した。電車を降りたときは透き通るような青空が広がっていたのに、今は灰色の分厚い雲が空を埋め尽くしていた。

 一歩ずつ、大木へ近づく。腕がどんどん引っ張られる。最初は抗っていたのに、今は力に勝てず腕が持っていかれそうになりながら、大木の前に来た。


――やっと来た。僕の腕……。


 大木がざわざわとしだした。あたりの風が強かった。


「この腕はあなたのじゃない。わたしの腕よ」


――僕のだ。僕のだ。


 彼の声は悲痛な叫びだった。


「なぜ腕が欲しいの?」


――僕はヴァイオリニストになりたかった。大学で神童とか天才とか言われていた。僕はそんなことどうでもよかった。ただ自分のヴァイオリンをひとりでも多くの人に聴いてもらいたかったんだ。演奏がうまくなればなるほど、僕の演奏に嫉妬する奴が現れる。そいつがある日、階段から僕を突き落とした。そのとき左手の人差し指と薬指を複雑骨折した。リハビリで日常生活に支障がでない程度まで治すことはできても、ヴァイオリンは無理だ、という診断がでた。そこで僕のヴァイオリニストの夢は途絶えた。


「あなたはそれでこの木に……」


――ああ、そうさ。君の想像通りだよ。


 私は、なにも言えなかった。


――僕はヴァイオリンが弾きたいんだ。そんなとき君がここでヴァイオリンを弾いていた。たまらなく手が欲しい、と思った。


「あなたの事情はよく分かった。でも、この手はあげられない。あなたが自分の手を大事に思うように、私もこの手が大事なの」


――君に僕の気持ちがわかるわけがない。


 今までの冷静な話し方は無くなり、地を這うような恐ろしい声と共に風が強くなった。そして左手首に激痛が走った。見ると、真っ赤な手の痕ができていた。握られる力がどんどんと強くなり、左手は血の気を失い、青紫色になっていた。このままじゃ、本当に左手が持っていかれてしまう。


「ち、がうよ……。私の左手を手に入れたって、あなたの演奏はできないよ。演奏できるなら何でもいいの? 違うでしょ。自分の音を出したいんでしょ? こんなこと無意味だよ。例え怪我をする前のように弾けなくても、今の自分ができる演奏を精一杯するのが演奏家でしょ。音楽家でしょ。だから、みんな苦しくても練習するんでしょ。今の自分を超えたいから」

 腕の痛みが和らいだ。

「私のヴァイオリンを貸すから、自分の手で弾きなよ。私が観客になる」

 そのとき掴んでいた手が手首から離れた。そして強い風が治まった。


――君は変わった人だね。こんなことするような奴に説教するなんて。


 涙声で彼が答えた。


――ヴァイオリン貸してくれる?


「うん。どうぞ」


 ケースからヴァイオリンと弓を大木へ向けた。ヴァイオリンが手を離れ、空中に浮いた。そして、ヴァイオリンと弓が重なり、音を奏で始めた。曲は『バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番』。指を怪我しているせいで所々の音が不安定だった。でも、この人はヴァイオリンが心の底から好きなんだ、と思った。涙が止まらなかった。第一楽章と第二楽章の演奏が終わった。


――ありがとう。


 私は力一杯拍手をした。

「すごく、素敵な演奏だった。あなたのような音を私は出せない」


――ありがとう、ありがとう。ごめんね。


 ヴァイオリンが地面に置かれた。そして、木がざわざわと葉を鳴らし、一瞬白く光った。あまりに強い光に目をつむった。ゆっくり目を開ける。青空が広がり、大木は真夏なのに葉が一枚もなくなっていた。役目を終えた大木は姿を変えたのだ。

 彼は自分の演奏に納得がいったのだろう。だから自分の行くべき場所へ行ったのだろう。左手首に赤い痕は無かった。手を握って開いてと動かしてみても、特に問題はなかった。

 ヴァイオリンを手に取り、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第一番の続き――第三楽章と第四楽章――を演奏した。


 あれから四年が経ち、私はA音大の三年生になっていた。今日もうだるような暑さだ。こんな暑い日はあの彼のことを思い出す。彼もこの大学で色々な思いを抱えながらヴァイオリンと向き合っていたのだろう。私もヴァイオリンと向き合ってきた。そして、私はただの凡人だった。ヴァイオリニストではなく、ヴァイオリン教室の先生なろうと思っている。どんな形であれヴァイオリンと関わる仕事がしたいから。

 旧校舎の跡地には立派な音楽堂が建てられた。大学内でも、どうして突然あの祟りが消えたのかは謎のままである。たくさんの憶測が飛び交っているが、どれも真実ではなかった。その真実を知っているのは私だけだから当たり前だ。

 今でもあの『首吊りの木』はA音大の七不思議のひとつである。


 私は七不思議の内、一つを体験した。残り六つのどれかを体験するのはそこのあなたかも知れない……。

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