02:戯言で形作られる
「……いつ見てもデカイな」
「萎縮しちゃうよね」
蒼古な門構えである。“光山剣術道場”と大きく彫られた看板は、それだけで、二メートルは越すかという大男どもが竹光を振り回す、厳しくムサい地獄絵図を想像してしまう。
しかし、その下には全く使われた形跡のないインターホンと、“セールスお断り”というこれもまた必要のないだろうプラスチックの板が貼られ、失笑を誘う。
隣で、井上がグスンと洟を啜った。グラタンの衝撃は、予想外に大きかったらしい。
「……うぅ、河田、お前が悪いんだ。お前の靴が俺にフィットしてたなら、あんな、あんな悲劇は起こらなかった…!ああ、あのジュブリとした感触…!靴底の消えない違和感!全て、お前が…お前があぁぁ!」
「め、目が…目があぁぁぁ!」
「佐々木も好きだな、それ」
呆れて呟いたとき、門の向こう側から声がした。
「凛太朗と友明と吉宗かい」
よく通る、凛と澄んだ迷いのない声。
声だけでも惚れる人間がいるだろうと思うほどの美声だが、これがなかなか曲者なのだ。
「――さて、謎々だ。パンはパンでも食べられないパンはなーんだ」
――これだよ。
訪れるたびに、嬉々として出題されるこの謎々だが、正答しないと門は開けてもらえない。
俺たちは、げんなりと肩を落とした。
「……今日は、また簡単なものを出すな」
「実は……なぞなぞの本をなくしてしまったんだ。もうすぐ僕の誕生日だからプレゼントしてくれ」
「…………フライパン」
「えっ!?俺てっきり、パンティかと思」
「黙れ」
発情期真っ盛りの馬鹿に二人がかりで肘鉄を食らわせ、重々しい音を立てて開けられた門をくぐった。
この時期、この庭園には、様々な花が咲き誇る。まだ五部咲きの桜が、目に眩しく沁みた。
ツツジの葉を頭にくっつけた謎々の主は、制服姿の俺たちを見ると、大きく笑った。
「なんだ、また学校を脱走したのかい」
これが、佐々木の心酔している少年…なのか、青年なのか、いまいち判別の付かない人物、菊池鈴麻呂である。
病弱ゆえに屋敷から一歩も外に出たことがないという彼は、そのわりには世情に詳らかで、その豪胆な性格は、不良で通っている俺たちも感心するところだ。
俺よりも三歳は年上だろう彼は、整った顔を、機嫌よさそうに綻ばせた。
「そんなに先生方のお叱りが好きなら、たまには僕が代わりに叱ってやろうか。この悪餓鬼共め。手土産くらい持ってくるべきだね」
「気遣いはよせって言ったのは鈴麻呂でしょ」
「建前に決まっているだろう」
佐々木が、心外だと言わんばかりに口を挟むが、全く動じた様子もない。
先述のとおり、佐々木はこの年齢不詳な病人に、それはもう傾倒しているのだ。だから、顔を見たが最後、べったりとへばりついて離れない。
しかし、鈴麻呂は、病人にはあるまじき機敏な動きで佐々木を引き剥がすと、障子越しに座敷に向かって呼びかけた。
「凪様。凪志野様。起きていらっしゃいますか?むしろ生きてます?死んでいないのなら応答お願いします」
薄闇に包まれた座敷の奥から、うぅともおおとも付かない、とりあえず呻き声が聞こえた。
その瞬間、突然荒々しく襖を開ける音と、何かを蹴るような鈍い音、…それと、また呻き声がした。
「何、真昼間っから寝てるんだい。あの子たちだって大概世間様に顔向けできないがね、若いだけずっとマシさね。お前みたいな青瓢箪は布団虫にでもなっちまえばいいんだよ」
こちらも、よく通る艶のある声だ。凪志野への罵倒と共に、何やら俺たちの悪口も言われているようだが、逆らうと怖いので気にしない。
桜の模様が入った洒落た障子が、パシンと開かれた。
立っていたのは、和装の麗人。腰まではあろうかという長い黒髪を背へと流した、二十歳ほどの女性であった。
「…上がりな。なんもない古ぼけた家だけどね、茶くらいは出すよ。鈴麻呂はあんまり外にいるんじゃないよ。水遣りはそのっくらいにしといて、さっさとおいで」
乱雑な言葉遣いとは裏腹に、目元には柔い笑みが浮かんでいた。とても絵になる女性なのだ。
対する鈴麻呂は、こちらも見目麗しい笑顔を作った。
「ああ、今いいものを見つたんだ。見てごらん、蝶古さん。テントウムシだっ!」
「テ…ッ。この莫迦!そんなもんさっさと捨てて、手を洗っといで。凪に怒られるよ」
「蝶古さんは虫が嫌いなのかい?」
「あたしが怖いのは柳の下の幽霊だけさ。あんた、そんなモン触って、バイキンでも入ったらどうするんだい。捨てな」
出た。この過保護っぷり。今日はまだ姿を見せていない凪志野さんもそうだが、この家の人は鈴麻呂に超絶甘い。その甘さといったら、加糖ココアにメープルシロップとホイップクリームを加えた上、一緒にプリンを食べるくらいの、くどすぎる甘さである。
鈴麻呂は、そうかぁバイキンかあと呟くと、丁寧にテントウムシを葉の上へ返した。……ああ、佐々木のあの目の輝きときたら。まるで、好きな人の帰り道をストーカーし、雨に濡れる可哀想な捨て猫を拾う思い人を見て、惚れ直すくらいの異常な輝きだ。
「さて。じゃあ手土産すら持ってこない気の利かない中学生の諸君。クッキーも煎餅も持たない金食い虫の少年たちよ。僕の後に付いてきたまえ」
「…なにか食べたかったのか。よっちゃんイカならあるが」
「……では、いただこう」
冷静な反応とは相反して、目は嬉しそうに和んでいた。よっぽど、変なものを食わされているらしい。……余談であるが、蝶古さんの味噌汁は地獄の血の池の味がするそうだ。
屋敷に上がると、線香の匂いが鼻腔に満ちた。この家は、いつも誰かの弔いをしている。
仏間の手前の部屋で待たされることとなった。褪せた色彩の家。縁はささくれだち、畳は乾いた色をしていた。
電気も通っていないのは、流石に最初は驚いた。しかし、よく考えてみると、ここまでシチュエーションが揃っておいて、床暖房だったり、クーラーが備え付けてあったりしたら、それは興醒めだ。
敷地内の洋館にはシャンデリアがあるのだし、全く電気を使っていないというわけではないのだろう。
隣の沢のせせらぎに耳を澄ましていると、ギシ、ギシと廊下を踏みしめる音がした。鈴麻呂が顔を上げて、未だ開かぬ襖を見た。足音は蝶古さんのものだろう。――自らの存在を知らせるということをしないのだ、あの人は。
俺たちは、揃って姿勢を正した。あの人に会うとなると、いつも緊張する。気さくで温和な人なのだが、常に体の回りに結界を張っているようで、それに僅かでも触れた時、きっと俺の命はないのだろうと、そういうおかしな錯覚さえ抱かせる。要は変な人なのだ。
音も立てずに、襖が開かれた。一層強くなる、弔いの匂い。
最初に、蝶古さんがきびきびとした動作で入ってきて、鈴麻呂の隣に腰を下ろした。
襖から、青白い指がのぞき、僅かばかり入り口を広げた。
――来た。
ぞろり。正にそういう擬音が似合う動きで、あの人がこの部屋へ足を踏み入れた。
凪志野。不思議な名前を持つ人物。
ごっそりと色素の抜けた髪を持つ、長身痩躯の男性は、緩慢に入室すると、人懐こい笑顔を浮かべて、片手を挙げた。
「久しぶりですねえ、金太郎くんによしみつくんに綱吉くんでしたっけ」
……そう、変な人なのだ。