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01:風を裂く魚

――ねえ、あたしを見て。あたしの声を聞いて。

時折、ふいに耳鳴りと共に、こんな声が聞こえる。

やけに鮮烈に、鼓膜へと焼き付く、狂おしいほどの。

聞こえているよ、と頭の中で返事をする。君は誰だ、という問いかけも忘れずに。

――ねえ、あの人を捜して。

いつもこうやって、一方的に用件を押し付けてくる。

あの人とは誰のこと?そう尋ねてみても、同じ言葉を繰り返すだけ。

――きっと寂しがってる。あの人は、優しい人だから。ねえ、捜して…お願い…。

そのうち、だんだんと声は掠れてゆく。まるで柔らかい砂の中に埋まってゆくように、じわじわと彼女は消えてゆく。

結局、俺は、何の情報も掴めず、釈然としない思いのみを胸に残すことになるのだ。


「……波田はた。こら、波田はた凛太朗りんたろう。――おい、誰か。あいつを起こしてやれ」

「……………起きてます」

麗らかな春の初めの午後。

チョークの匂いがする教師の声で、俺は覚醒した。

元々、寝付きにくい体質だから、授業中にまどろむことはない。

ただ最近は、あの変な声のせいで、ぼーっとする時間が多くなってしまっていた。それだけのこと。

何と言う名前だっただろうか。痩せぎすの中年教師は、大きな溜息を吐いて、俺の頭を小突いた。

「お前、何でそうワンテンポ遅いんだ。異世界にトリップするのもいい加減にしろよ。――P24の三問目、黒板によろしくな」

「はい」

俺は従順に席を立ち、教科書に目を落とした。

漢文の語訳らしい。孔子か何かだろう。インテリな文句が並べられているそれを、俺はチラリと見ると、黒板に書き込んだ。

突如、クラスメイトから、変な歓声が上がった。

怪訝に思い、中年教師を振り返れば、彼はなぜか情けない顔をして、俺を呆然と見ていた。

「お前…誰がいつ、漢文を英訳しろって言ったよ…」

確かに、よくよく見れば、現代語訳と出題されていた。

「……あ、すいません。……ドイツ語とヘブライ語もいけますけど」

哀れな国語教師は、いよいよ泣き出しそうな顔になった。

「結構です。――じゃあ山田。に・ほ・ん・ご・の、現代語訳を頼む。波田はもう、異世界でも天国でも、好きなところへ行ってくれ」

「判りました」

「冗談な?」

「……………」

「…冗談だからな!?」

半ば本気で、俺の失踪を止めようとする教師に、クラスメイトは笑いを漏らした。

俺は家出癖のある猫にでも見えるのか。

「先生、凛ちゃんが失踪したら、電信柱にビラ貼らないと」

「今のうちから準備しとこうぜ。いつフラフラ消えるかわかんねえし」

気心の知れた友人が、ヘラリと茶化した。

それに俺は、目を据わらせる。

「……佐々木、井上。子錦こにしきセンセを口説くか、一人バックドロップ…どっちがいい?」

「あ、俺、コニちゃんいくわ。俺のシュガーボイスは痺れるぜ…?」

「えぇ〜。ってことは、俺一人バックドロップ?なんか今から首痛いんですけど」

「こらこらこら、この不良少年ども。授業中だ。それと、小西先生は小錦ほど太っちゃいない」

「子錦の方が引き締まってると思いまーす」

小西先生とは、音楽の教師のことだ。声楽をやっていたのかどうなのか定かではないが、尋常でないほどに太い。彼女の机だけ特注なのと、子錦というあだ名が証拠。

服のサイズは8Lとも9Lとも噂される、我が校の愛すべきビッグ女教師である。

「先生、これでいいですか」

「おう、すまんな山田。……うん、よし。出来なかった奴はちゃんと書き写しとけよー」

伸ばした語尾が終わるか終らないかの内に、終鈴が鳴った。

遊びたい盛りの中学生たちは、一斉に筆記用具をしまい、席を立ち上がった。

「起立、礼」

既に体を友人の方向へ向けている、学級委員のおざなりな挨拶と共に、教室は喋り声で溢れた。

ほとんど用を成さなかった教科書を机に投げ入れると、俺は、ふいに肩に重みを感じた。

振り向けば、綺麗な金髪頭。

クォーターなのに、外人っぽさは髪と目にしか現れていないので、一見すると、脱色した不良にしか見えない。

「おい波田凛太朗。ちょっと面貸せよ」

俺の数少ない友人の一人、井上いのうえ友明ともあきだった。

「井上…。よくも人を大勢の前でコケにしてくれたな」

「あれ?あれれ?存分にやり返してくれたのは誰だっけ?」

「さて。そんな場面が一度たりともあったかな」

「ね〜え凛ちゃん。俺、一人バックドロップとか無理!」

甘えた声は、男にしては随分と可愛らしい外見と性格を持つ、ささ吉宗よしむねのものだった。完全に名前負けしていると俺は常々思っている。

「あ、でも友がクッションになるってんなら、話は別だけど」

「よし、井上。やれ」

「えっ?何それ。俺、コニちゃん首ったけっていう苦行やんのに、も一つ追加されんの?」

井上が泣きそうな顔をした。それを俺は鼻で笑った。

「ね、ところでさ」

佐々木が声を低く潜めて口を開いた。こうすると、結構男臭さが滲み出る。

「さっき……また出た?」

井上も腰をかがめて、含みのある目線で答を促した。

「……ああ」

“出た”――それは、怪奇現象専用の動詞。

俺は頷いて、声の細部を思い出そうと眉根を寄せる。

「女の子の声だった。大した情報は得られなかったけど、男を捜しているようだ」

「男?……失恋して自殺でもしたのかね。そんで復讐と…」

「いや、男の方も寂しがってるから、捜してくれとか」

「ハァ?アホくせー、んな勘違い娘の我が儘をなぜに俺らが聞いてやらなあかんの学力調査も近ェんだしやってる暇ねえよ俺これ以上先輩方に絞られちゃ不味いんだっていい加減にしろ諦めて首でも吊れって伝えやがれしかしもしそのコが色白のエビちゃん系美少女だったら複雑だけどちょっと状況は好転しちゃうかもねあっでも俺鈴麻呂一筋だから無理。…と言いたいかな」

「充分言いたいだけ言ってると思うが」

「吉宗のマシンガントークは尊敬しちゃうわ。でもキレた時の口調は俺より怖いってギャップ、心臓に悪いからよして頂戴」

「あれ、井上は知らなかったのか。佐々木は逆ツンデレという新ジャンルの第一人者だぞ」

「はーい先生。それってただの内弁慶だと思いマース。別に新でも何でもないと思いマース」

井上の意見を無視して、俺たちは揃って、窓の外を見た。

東に青青と聳える山。その麓の沢の隣に、彼らが住む。

「……またサボるのか。今でさえ先輩から目を付けられてるっていうのに」

「サボりですとな。凛太朗さん、最近、サボタージュという言葉はタコりという言葉に取って代られているようですよ」

「えっ、なになに?コーンポタージュ?」

「はいはいはーい、クソつまんねえ親父ギャグはやめましょうねえ〜。サボタージュ、イコール、サボり。元々はフランス語という由緒正しい単語ですのよ」

「お前はそんな無駄知識ばかり腐るほど持ってるな。このオタク」

「凛太朗にゃあ負けるって」

軽口を叩きつつ俺が立ち上がると、瞬間、ドア付近の生徒達が、まるで旧約聖書にある海の割れる場面のように一斉に道を空けた。

馬鹿二人が、モーセだ、モーセがいるとほざくのを黙殺して、扉を開けた。春の風が心地好く吹き込んで、思わず俺は目を細める。

昇降口で靴を履き替えている時に、四時間目のチャイムの音が鳴り響いた。隣の職員室から、慌しく教員たちが出てくるのが見えた。

「あっ、やばい。石川が来る!急いで急いで!」

「……チッ。あいつ、いつもはチャイムより前に教室に入ってるくせに…」

「…おい。井上、それは河田の靴じゃないのか」

「え?」

「おい、お前ら!また授業をエスケープする気かッ!!」

――来てしまった。時代錯誤なポンコツ歴史教師。

エスケープというこの一言を得意げに叫ぶ時点で、既に彼が何歳くらいなのかお判りだろう。

俺たちは、その鉤爪かぎづめのように痩せ細った体と、彼の友人で、こちらもあんまり賢くないじいさん国語教師、墨田すみた教諭の名前から、二人合わせて「フックとスミー」と呼んでいる。もちろん、石川が単体のときは“船長”である。

「今日という今日は許さんぞ!校長先生の前に突き出して、全校集会で晒し者にしてやる!」

息巻いて大股でこちらへ向かってくる彼を見て、俺たちは慌てて走り出した。

「まッ、待て!お前たち、こんなことをして立派な高校に行けると思ってるのか!――おい、古川先生!あんたあいつらの担任でしょう!捕まえてくださいッ!」

「いやあ、まあ青春だから…という話にしといてくださいよぉ」

独身暦にも年季の入った我らが担任、古川ふるかわ美津男みつおは、和やかに老教師の攻撃をかわした。しかし、その目は明らかに怒気を含んでいる。背後には不動明王すら見えてきた。――今日は学校に戻れまい。

俺たちは背後の憤怒に怯えながら、校庭のフェンスを飛び越えて大通りを走り抜ける。商店街の色あせた色彩が、春の空を彩っているようにも見えた。

電気屋の敷地を抜け、マンションの垣根を潜り、顔見知りのカフェの裏口から路地裏に入る。ポリバケツを踏み台にして塀を飛び越え、交番の前を隠れながら走り過ぎる。スーパーかしわぎの裏手を通り抜ける時に、井上が賞味期限切れのグラタンを踏み付けて悲鳴を上げた。……人の靴なのに。

路地裏は元より、人家に侵入してまで探し当てたこの最短距離でなら、遠くに見えた山も、僅か二十分足らずで行けるのだ。

べそを掻く井上に、佐々木と俺は冷たい視線を浴びせつつ、巨大な日本家屋を見上げた。

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