第九十七話「千年王の古城にて」
エリドゥ郊外にそびえる古城は、千年以上の歴史を刻んでいた。
「皆様、こちらをご覧ください」
ガイドが玉座の間を案内する。観光客たちが、興味深そうに集まってきた。
「ここに刻まれた文字が読めますか? 『メルベルは逃げた。千年王を倒したのはナブ・エア』と」
ニーナとガランも、他の観光客に混じって説明を聞いていた。
「六百年前、当時は神殿という地質管理を行う公的組織がありました。カーカラシカ帝国の前身の組織ですね」
ガイドが朗々と語る。
「メルベル・ボムが登場するまで、組織は腐敗の極みにありました。彼は自ら汚名を被り、手柄を友人のナブ・エアに託すことで、神殿内の腐敗した勢力を一掃したのです」
「へー、そうなんだ」
ガランが感心したように呟く。
「歴史って、表と裏があるんだな」
古城の内部は、凄まじい建築美に満ちていた。精緻な彫刻が施された石柱、崩れかけた壁画、床に散らばるモザイクタイルの欠片。全てが、偉大な時代の遺物を物語っている。
「見て、ガラン」
ニーナが展示ケースを指さす。
「千年王の王冠……」
黄金の王冠は、千年の時を経てなお、鈍い輝きを放っていた。
「すげえな。これを被ってた奴を、メルベル様が倒したのか」
ガランが別の展示を見つける。
「あ、これがメルベル様の剣か! 折れてるけど」
刃の中ほどから折れた古剣が、恭しく飾られている。
「決戦の時に折れたって書いてあるね」
ニーナも興味深そうに覗き込む。今この瞬間だけは、全てを忘れて純粋に楽しんでいた。
売店に立ち寄ると、ニーナは小さなキーホルダーを手に取った。千年王の紋章をモチーフにした、可愛らしいデザインだ。
「これ、買っていい?」
「もちろん」
ガランが財布を出す。
「記念だもんな」
ニーナは嬉しそうにキーホルダーをバッグに付けた。
(これが、最後の思い出になるかもしれない)
そんな思いが一瞬よぎったが、すぐに振り払った。今は、今を楽しむだけ。
最上階へと続く螺旋階段を登る。
「ここが、千年王が最期を迎えた場所です」
ガイドが厳かに告げる。
壁は大きく崩れ、そこから聖火の岬が一望できた。風が吹き込み、観光客たちの髪を揺らす。
「すごい場所だなー」
ガランが感嘆の声を上げる。
「ここで、歴史が変わったんだ」
「写真撮ろう!」
ニーナがガランの腕を引く。
「せっかくだから、思い出に」
二人は他の観光客に混じって、崩れた壁を背景に写真を撮った。ガランがニーナの肩を抱き、ニーナが幸せそうに微笑む。
「もう一枚!」
「はいはい」
何枚も写真を撮っていると、突然、場の空気が変わった。
物々しい格好をした軍人たちが、階段から現れたのだ。
「……あ」
ニーナの顔から血の気が引く。がっくりと肩を落とし、まるで糸が切れた人形のようにうなだれた。
(やっぱり、来た)
ガランも状況を察した。
(きやがったな、連中)
ニーナを攫おうとしている奴ら。いくら軍という巨大な組織でも、やっていいことと悪いことがある。
兵士たちの後ろから、見知った顔が現れた。
「やあ、船長」
レイが苦笑いを浮かべている。隣にはセラフィナもいた。
ガランは素早くニーナを背後に回し、二人に向き合った。
「よお」
わざと軽い調子で声をかける。
「観光かい?」
周りの観光客たちが、ざわめき始めた。
「皆さん、申し訳ありませんが、外へ」
兵士たちが観光客を誘導し始める。
「なんだよ、金返せ!」
「まだ見学時間残ってるぞ!」
「一体何の騒ぎだ!」
観光客たちが不満を口にしながら、ドヤドヤと出ていく。
人がまばらになった空間で、レイが口を開いた。
「船長、その節はお世話になりました」
セラフィナも続ける。
「怪我の具合は、もうすっかりいいようね」
「ああ」
ガランが肩を竦める。
「傷も塞がって、完全回復だ」
そして、挑戦的な笑みを浮かべた。
「で? 何か用か? 俺たちは今、見ての通りの状況でね。できれば邪魔しないでくれよな」
「ニーナさんに用があってね」
レイが申し訳なさそうに言う。
「ガラン船長、前から連絡していたでしょう? 嘘をついていましたね」
「嘘?」
ガランが鼻で笑う。
「何のことだか。妻はもう軍属じゃないんだよ。いくら誘っても、行きたくねえって言ってるんだ」
「妻……」
セラフィナが顔を顰める。二人の距離感、雰囲気、全てが物語っている。完全に一線を越えた関係だと。
「俺の家でワイン作るのに忙しいからな」
ガランが続ける。
「悪いが、他をあたってくれ」
「船長、これは国の一大事なんです」
セラフィナが声を強める。
「ボム家一同、いや、四つの家の全員が待っています。メルベル様がお会いになりたいと」
「だから何だ?」
ガランの声が低くなった。
「分かんねえかな。こいつは俺の女だ」
一歩前に出る。
「いくら権力者でも、やっていいことと悪いことがあるだろ」
「船長——」
「嫌われてんの、分かんねえか?」
ガランが轟然と言い放つ。
「舐めてんのか、お前ら」
まだ残っていた観光客たちが、事情を察し始めた。
「そうだ! いいぞ!」
誰かが叫ぶ。
「公権力がそこまでしていいわけないだろ!」
「横暴だ!」
「可哀想に!」
野次馬たちの声が響く。
レイが困ったように頭を掻く。
「ちょっとややこしいですが、そういう話でもないんですよ」
観光客たちに聞こえないよう、声を潜める。
「デリケートな事情がありまして……」
そして、ガランの背後にいるニーナに視線を向けた。
「ニーナ様」
その呼び方に、ガランが眉をひそめる。
「何の話か、分かりますよね?」
レイが優しく語りかける。
「どうも、まだガラン船長に伝えていないようですし。このままでは、船長に迷惑がかかります」
ニーナが震えている。
「ほら、こちらに」
レイが手を差し伸べる。
セラフィナが腰の警棒を取り出した。法力伝導性の高い特殊警棒だ。他の兵士たちも、同じように警棒を構える。
場の緊張感が一気に高まった。
「おいおい」
ガランが笑う。しかし、その目は笑っていない。
「物騒だな」
兵士の一人が、ニーナを確保しようと手を伸ばしてきた。
瞬間、ガランが動いた。
伸びてきた手を掴み、体を捻って投げ飛ばす。兵士が床に叩きつけられ、その警棒が転がった。ガランは素早くそれを拾い上げる。
「あー……」
レイが頭を抱える。
「こうなったか……」
「船長! 抵抗は——」
セラフィナの言葉を遮って、兵士たちがガランに殺到した。
しかし、ガランの動きは素早い。警棒を振るい、迫る兵士たちを次々と叩きのめしていく。
「くそ! 何人いるんだ!」
「船長、やめてください!」
レイが叫ぶが、ガランは止まらない。
観光客たちが悲鳴を上げる中、乱闘は激しさを増していく。
セラフィナがため息をついた。
「ガラン船長」
冷たい声で告げる。
「あなたは保護しろとは言われていないんですよ」
「それで?」
ガランが荒い息をつきながら振り返る。
「これが最後の警告です」
「はっ」
ガランが嘲笑う。
「それで俺が自分の女を渡したら、近所の笑いもんだぜ」
「そうですか」
セラフィナの体から、法力が解放された。
空気が震える。圧倒的な力の差。
セラフィナが跳躍し、ガランに襲いかかる。ガランは警棒で防御しようとするが——
「がっ!」
怪力の一撃が、防御ごとガランを吹き飛ばした。壁に叩きつけられ、苦悶の声を上げる。
「ガラン!」
ニーナが叫んだ。
そして——
「やめて!」
ニーナの体からも、法力が爆発的に解放された。
「なっ——」
セラフィナが驚愕する間もなく、ニーナの拳が炸裂した。セラフィナが弾き飛ばされ、石柱に激突する。
「やっぱり……」
レイが呟く。
「俺たちで取り押さえるのは、まず無理なんだよな……」
合図をすると、兵士たちが一斉に銃を構えた。
「きゃあ!」
観光客たちが悲鳴を上げる。
「撃つな!」
ガランが叫ぶが——
銃声が響いた。
しかし、飛び出したのは弾丸ではなく、麻酔針だった。
何本もの針が、ニーナの体に突き刺さる。
「くっ……!」
ニーナはそれでも、レイに向かって殴りかかった。
「うわっ!」
レイが一瞬で殴り飛ばされる。
「ガラン!」
ニーナは倒れているガランを抱え起こし、逃げようとした。しかし——
「あ……」
足がもつれる。視界が歪む。麻酔が効き始めていた。
「に、逃げ……」
ガランが必死に言葉を絞り出すが、ニーナは首を振った。
「一緒……一緒じゃなきゃ、嫌……」
そして、ガランの上に崩れ落ちた。
「なんてことだ!」
「横暴だ!」
「助けを呼べ!」
観光客たちが口々に抗議の声を上げる。しかし、兵士たちは粛々と任務を遂行した。
「道を開けろ!」
兵士たちが観光客を押しのけ、倒れた二人を担架に乗せていく。
レイが鼻血を拭きながら立ち上がった。
「申し訳ありません、皆様」
観光客たちに向かって頭を下げる。
「国家の重要案件でして……」
「ふざけるな!」
誰かが叫ぶ。
「あの二人は新婚旅行中だったんだぞ!」
「そうだ! 幸せそうだったのに!」
罵声を浴びながら、軍の一行は古城を後にした。
担架に乗せられたニーナの手には、まだ買ったばかりのキーホルダーが握られていた。




