第九十六話「最後の逃避行」
祭りの片付けが終わり、農園に日常が戻りつつあった昼下がり。
「ねえ、ガラン」
ニーナが突然切り出した。庭先で、ガランは屋根の修理箇所を確認していたところだった。
「新婚旅行に行きましょう」
「ん? ああ、いいね」
ガランは軽く答えながら、破損した瓦を数えている。
「いつか時間ができたら、どこか遠出でも——」
「今から行きましょう」
「え?」
ガランが振り返る。ニーナの表情は真剣そのものだった。
「今? 今からって……」
周りを見渡す。母親は台所で夕飯の支度を始めているし、父親は帳簿の整理をしている。妹たちも、それぞれ日常に戻っている。
「ニーナ、急にどうした?」
「お願い」
ニーナがガランの手を取る。その手が、微かに震えていた。
「今すぐ、二人でどこかに行きたいの」
「でも、屋根の修理もあるし、明日は——」
「明日なんて、どうでもいい!」
ニーナの声が裂けた。赤い瞳に、涙が滲んでいる。
「今、今じゃなきゃダメなの」
ガランは、ニーナの必死さに戸惑った。しかし、同時に何かを察した。
(そうか……)
連日かかってきていたブレイドからの連絡。『ニーナを知らないか?』という執拗な問い合わせ。
(きっと、メルベルの奴に何か言われたんだ)
都で二人きりになった時、メルベルはニーナに何を言ったのか。おそらく——
(妾になれとか、そういう類の話か)
権力者にありがちな横暴。美しい女性を見れば、手元に置きたがる。
(だから、ニーナは逃げてきた)
全てが繋がった。ニーナが焦っている理由も、必死に農園生活に馴染もうとしていた理由も。
(この状態を、少しでも長く続けたいんだ)
ガランの中で、何かが決まった。
ニーナをぐっと抱きしめる。
「よーし!」
明るい声を上げる。
「じゃあ、今から旅行に行っちまうか!」
「え?」
今度はニーナが驚く番だった。
「本当に?」
「ああ、万事俺に任せとけ!」
ガランが優しく頭を撫でる。
「どこに行きたい?」
「どこでも……あなたと一緒なら」
「じゃあ、エリドゥの聖火の岬でも見に行くか! あそこの夕陽は絶景だぞ」
ニーナの顔が、花のように輝いた。
「行く! 絶対行く!」
(これが最後になるかもしれない)
ニーナは心の中で思った。あと一日、いや数時間すれば、全てを暴露する軍関係者がやってくるはず。でも——
(今だけは、この幸せを)
「ちょっと準備してくる」
ガランが家に入っていく。
「母さん、父さん」
「何だ?」
「ちょっと何日か留守にするから」
「あっそう」
ロベルトがあっさりと答える。
「新婚旅行か?」
「まあ、そんなところ」
「いってらっしゃい」
マルタも笑顔で見送る。
「ニーナちゃんを大事にしなさいよ」
「分かってる」
荷物をまとめて、ガランは車を出した。
「さあ、行こう」
ニーナが助手席に飛び乗る。もう、何も考えたくなかった。女帝? 皇族? そんなもの、全部忘れて——
「ねえ、ガラン」
「ん?」
「好きよ」
「……俺もだ」
車が動き出す。葡萄畑を抜けて、街への道を走り始める。
ニーナは窓を開けて、風を感じた。自由な風。束の間の、偽りの自由。
残された時間を、思い切り楽しもう。何の気兼ねもなく、ただの恋人として。
「歌でも歌おうか?」
「いいね!」
二人の笑い声が、風に乗って流れていく。
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翌日の昼過ぎ。
ベル家の農園に、黒塗りの軍用車が到着した。
「失礼します」
降りてきたのは、ブレイド隊のレイと数名の隊員だった。
「ニーナさんはいらっしゃいますか?」
ロベルトが首を傾げる。
「ニーナ? ああ、息子の嫁のことか」
「嫁!?」
レイが声を上げる。
「ええ、まあ、正式な式はまだですが」
マルタがのんびりと答える。
「昨日、ガランと一緒に出かけましたよ」
「出かけた? どこへ?」
「さあ? 新婚旅行ですかね」
「新婚旅行!?」
レイの顔が青ざめる。
「ちょっと待ってください。ニーナさんと、ガラン船長が?」
「ええ、もう仲睦まじくて」
マルタが微笑む。
「見ていて微笑ましいくらいですよ」
レイは頭を抱えた。
(メルベル様に、何て報告すれば……)
「いつ頃、戻られる予定ですか?」
「さあ、息子にそういうことは全部任せてますから」
ロベルトがのんきに言う。
「一週間か、十日か。若い二人ですからね」
(最悪だ)
レイは慌てて通信機を取り出す。
「こちらレイ。至急、本部へ」
『どうした?』
「ニーナさんを発見しましたが……」
『が?』
「新婚旅行に出かけたそうです」
『は?』
通信の向こうで、絶句する気配が伝わってきた。
「相手は、ガラン・ベル船長です」
『雷牙号の?』
「はい」
長い沈黙の後、指示が飛んだ。
『追跡しろ。行き先を突き止めて、速やかに保護せよ』
「了解」
レイたちは慌てて農園を後にした。
街の空港へ向かい、職員に聞き込みを始める。
「昨日、この二人を見ませんでしたか?」
写真を見せると、職員が頷いた。
「ああ、覚えてますよ。仲の良いカップルでした」
「どこ行きの便に?」
「確か、エリドゥ行きでしたね」
「エリドゥ!」
首都へ向かったとなれば、話は早い。レイは部下に指示を出す。
「エリドゥの全ての宿泊施設をあたれ。特に、聖火の岬周辺を重点的に」
「はい!」
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その頃、エリドゥの聖火の岬。
断崖絶壁の上に建つ展望台で、ニーナとガランは夕陽を眺めていた。
「綺麗……」
オレンジ色に染まる海と空。聖火の塔が、遠くで金色に輝いている。
「な? 絶景だろ」
ガランが自慢げに言う。
「昔、一度来たことがあるんだ」
「いつ?」
「家を出た直後。これから自由に生きるんだって、決意した場所」
ニーナはガランの横顔を見つめた。
「今は?」
「今は……」
ガランがニーナの手を握る。
「お前と一緒に新しい門出だ」
ニーナは涙が溢れそうになった。
(もうすぐ、全部終わる)
明日か、明後日か。軍が自分を見つけ出すのは時間の問題。でも——
「ねえ、ガラン」
「ん?」
「今夜は、思い切り楽しもう」
「ああ」
「美味しいもの食べて、お酒飲んで、踊って」
「いいね」
「それで、明日の朝は——」
言いかけて、ニーナは口を閉じた。
明日なんて、考えたくない。
「明日も、楽しもう」
ガランが優しく言った。
「明後日も、その次も」
「……うん」
二人は手を繋いだまま、夕陽が海に沈むまで、そこに立っていた。次第に太陽が下りて、その代わりに月が出てくる。観光客たち、カップルたちは次第に夕飯をどこで食べるか検討をし始める。その喧騒の中で二人は歩いていた。
うすらぼんやりとした月が見える。
「ちょっと俺、夢があるんだけどよ」
「え?」
「いつかあそこに行ってみたいんだ」
ガランは指をさした。その先には月がある。白く薄く見える月。ニイナは軽く笑う。
「どういうこと?新婚旅行にあそこに行くってこと?」
「ロマンチックだけど何もなさそうね」
「小説で見たんだぜ、月っていうのはこの星よりも重力が少なくて何でも大きな建物なんかも立て放題だ」
「へえ……そんな小説があるんだ」
ニイナは月を見上げた。確かに、あの光る円盤の上に何かが建っているなんて想像もつかない。でもガランが言うと、なんだか本当にそんな未来が来そうな気がした。
「重力が少ないってことは、私たちも軽くなるの?」
「ああ、ふわふわ浮くらしいぜ。お前を抱き上げるのも楽になる」
「今でも楽でしょ、私そんなに重くないもの」
ニイナは少しむくれたふりをしたが、ガランは笑って彼女の手を強く握った。
「しかもよ、今の技術力なら無理じゃないはずなんだ」
「え、本当に?」
「ああ。向こうに着いてから何をするかは、正直まだ何とも言えねえんだけどな。問題は行く方法なんだよ」
ガランは少し声を落とした。
「例の爆弾あるだろ、あれ」
ニイナの表情が少し曇る。最近とんでもない事件を引き起こすことになった。母の遺産…。
「あれをよ、正しく使えば推進力にも簡単にできるんじゃねえかなって俺は思うんだ。破壊するためじゃなくて、飛ぶために使うっていうか」
「……あんな怖いものを?」
「聞いた話じゃ、最初は危ないものを無害化するために作ったらしいからな、あんなの本来の使い方じゃなかったはずだ。本当はそんな使い方をされるはずだったに違いない」
「……そうね。いつかそんな時代が来るかもしれないわね」
「ああ。俺たちの子供の世代くらいになったら、もしかしたら本当に月に行けるようになってるかもな」
「子供か……えへへ」
ニイナはそう言って、ガランの肩にそっと頭を預けた。




