第九十三話「田舎の退屈と都会の噂」
さらに一週間が経過した。
ベオルブ領の小さな街にある酒場『黄金の葡萄』は、午後の陽光を受けて静かに佇んでいた。雷牙号の船員たちが、思い思いにテーブルを囲んでいる。
「なあ、トム」
ジャックがビールジョッキを傾けながら切り出した。
「この街、健全すぎねえか?」
「ああ、分かる」
トムが苦笑する。手元には買ったばかりの本——『葡萄栽培の歴史』——が置かれているが、10ページで挫折したらしい。
「ビリヤード、ダーツ、あとは何だ? ささやかな噴水と博物館?」
「図書館と本屋もあるぞ」
「それが娯楽かよ」
ジャックがため息をつく。
「都会の、あの胡散臭い路地裏の……ちょっとこう、淫らな場所とか、全然ないよな」
「おいおい、女性陣もいるんだぞ」
トムが慌てるが、アティが笑った。
「何よ、私たちだって退屈してるわよ」
アザリアも頷く。
「正直、暇すぎて死にそう」
「だろ?」
ジャックが身を乗り出す。
「金はあるんだ。爆弾の件で大金もらったし。でも使う場所がねえ」
「本当ね」
アティがグラスを回しながら言う。
「昨日なんて、暇すぎて刺繍始めちゃったわよ。私が刺繍よ?」
「俺も料理本買っちまった」
トムが恥ずかしそうに言う。
「『家庭料理百選』。3ページで諦めた」
全員が笑う。
「そろそろ仕事始まらねーかな」
ジャックがぼやく。
「船長はどう思ってるんだろうな」
「あー、そういえば」
アティが思い出したように言った。
「昨日、街で船長見かけたわ」
「俺も見た」
別の船員が手を挙げる。
「ニーナちゃんと手を繋いで歩いてた」
「へー……」
全員の視線が集まる。
「どんな感じだった?」
「なんていうか……距離感が全然違ったな」
トムが頷く。
「前は船長とクルーって感じだったけど、今は完全に恋人同士だ」
「ああ、私もそう思った」
アティがため息をつく。
「実は私、ちょっと船長狙ってたのに」
「お前もか」
アザリアが苦笑する。
「背が高くて、優しくて、料理もできて……条件揃いすぎでしょ」
「でも、ニーナちゃんには勝てないわよね」
アティが肩を竦める。
「やっぱグイグイいかないとダメよね。ニーナちゃんのハングリー精神っていうか?」
「いや、あの見た目で押されて勝てる勝負なんてないだろ」
ジャックが断言する。
「金髪、赤い瞳、お人形みたいな顔。反則だろ、あれは」
「むしろ船長がラッキーだったんだよ」
トムが言う。
「ニーナちゃんがピンチの時に助けて、刷り込みみたいなもんだろ」
「おいおい、それは船長が可哀想だろ」
ジャックが反論する。
「命かけて助けたんだぞ? リリスとかいうルカヴィと戦って」
「そうよね」
アティも頷く。
「それに、船長だって魅力的だもの。ニーナちゃんが惚れるのも分かる」
そこへ、モニカが入ってきた。
「あら、みんな集まってるのね」
「モニカさん!」
アティが手を振る。
「ちょうどいいところに。ニーナちゃんとガラン船長の話してたの」
「ああ、あの二人ね」
モニカが微笑みながら席に着く。
「もう見てて分かるでしょ? 完全にラブラブよ」
「やっぱり?」
「昨日なんて、ニーナちゃん、ガランさんのシャツにアイロンかけながら鼻歌歌ってたわよ」
「うわー」
女性陣が顔を見合わせる。
「完全に新妻じゃない」
「そういえば」
トムが声を潜めた。
「俺のところにも、例の連絡きた」
「何?」
「ニーナちゃんのこと知らないかって。ブレイドから」
「あー……」
全員が顔を見合わせる。
「私のところにも来た」
アティが頷く。
「ディアス小隊長からよ」
「俺にも」
「私も」
次々と手が挙がる。
「前に冗談で言ってたけど、ちょっと普通じゃないよな」
ジャックが眉をひそめる。
「まじでメルベル大元帥が探してるってことか?」
「もしかして」
アザリアが推理を始める。
「ラムザ殿下のお嫁さんの話とかあるんじゃない?」
「ああ!」
トムが手を打った。
「そういえば、ニーナちゃん、『すぐにでも発ちたい』って焦ってたもんな」
「病院での検査の後でしょ?」
モニカが考え込む。
「確かに、様子が変だったわ」
「なるほどね」
アティが納得したように頷く。
「じゃあ、ニーナちゃん、逃げてたわけか」
「ガラン船長も、つくづくトラブルに事欠かないよね」
ジャックが苦笑する。
「塩化爆弾、ルカヴィ、今度は皇室関係?」
「待てよ」
トムが悪戯っぽく笑う。
「ってことは、船長、ボム家が狙った女を船で攫って嫁にしたわけか」
「嫁じゃないでしょ、まだ」
アティが訂正する。
「まだ、ね」
「けど、あれ見たら、もう一線超えてるわよ」
アザリアが断言する。
「朝の二人の雰囲気、全然違うもの」
「へぇー……」
男性陣が意味深に頷く。
「でも、これヤバくない?」
ジャックが真顔になった。
「国のトップが探してる女を、俺たちが匿ってるってことだろ?」
「確かに……」
トムも考え込む。
「じゃあ、ニーナちゃん、しばらく船に乗せない方がいいかもな」
「そうね」
モニカが同意する。
「工場で瓶詰めの仕事して、家で船長の帰り待ってる感じの方が、トラブルも避けられるでしょう」
「なるほどな」
「これ、船長に教えとくか?」
トムが提案する。
「『あんたの恋人、お偉いさんに狙われてるぞ』って」
「いや、もう知ってるんじゃない?」
アティが首を振る。
「知ってて、守ってるのよ。きっと」
「かっこいいじゃん」
ジャックが口笛を吹く。
「惚れ直すね」
「あんたたちもお金あるから船長目指してみたら?」
「そうそう、結局経済力と甲斐性よね」
女性陣が笑う。
酒場のドアが開いて、新しい客が入ってきた。地元の農夫たちだ。
「おや、空の民の皆さん」
「こんにちは」
挨拶を交わしながら、農夫の一人が言った。
「ベル家の長男、最近幸せそうだねえ」
「ああ、あの金髪の可愛い子と一緒の」
「いい嫁さんもらったなあ」
地元の人々にまで、二人の関係は知れ渡っているらしい。
「まだ結婚はしてないはずですけど」
トムが訂正するが、農夫は笑った。
「この辺じゃ、あれだけべったりなら、もう夫婦も同然さ」
「そうそう」
別の農夫も頷く。
「ガラン坊も、やっと落ち着いたかって、みんな安心してるよ」
船員たちは顔を見合わせた。
田舎の価値観は、都会とは違う。ここでは、二人はもう認められた仲なのだ。
「まあ、いいんじゃない?」
モニカが微笑む。
「ニーナちゃんも幸せそうだし」
「そうだな」
トムも頷く。
「俺たちは、見守るだけさ」
「でも、退屈なのは変わらないけどな」
ジャックがぼやくと、全員が笑った。
窓の外では、葡萄畑が午後の陽光を受けて黄金色に輝いている。
平和で、退屈で、幸せな田舎の午後だった。
「そろそろ戻るか」
「そうね、夕飯の手伝いしなきゃ」
船員たちが立ち上がる。
「あ、そういえば」
アティが思い出したように言った。
「明日、村祭りがあるらしいわよ」
「村祭り?」
「収穫祭の前祝いだって」
「へー、また健全な娯楽か」
ジャックが皮肉を言うが、顔は期待に輝いていた。
「まあ、暇つぶしにはなるだろ」
「ニーナちゃんと船長も来るかな?」
「来るでしょう、絶対」
「じゃあ、邪魔しないようにしないとね」
笑い声を残して、船員たちは酒場を後にした。
街の通りを歩いていると、ちょうどガランとニーナが向こうから歩いてくるのが見えた。
手を繋いで、肩を寄せ合って、まるで新婚夫婦のように。
「あ、みんな」
ニーナが手を振る。その顔は、幸せに輝いていた。
「よう、船長」
「みんな、酒場にいたのか」
ガランも自然に応じる。以前の堅さは消えて、柔らかな表情をしていた。
「明日の祭り、来るだろ?」
「ああ、もちろん」
「じゃあ、また明日」
二人は手を繋いだまま去っていく。
船員たちは、その後ろ姿を見送った。
「幸せそうだな」
「ああ」
全員がため息をついた。
「あー……」
アティが夢見るような声を出す。
「あんな感じに、私もなりたいなぁ」
「分かる」
アザリアも頷く。
「手を繋いで、幸せそうに歩いて……」
「俺とかどうよ!」
ジャックが突然アティの前に立つ。
「は?」
「俺と付き合わない?」
一瞬の沈黙の後、アティが鼻を摘んだ。
「とりあえず歯でも磨いてこい」
「えっ」
ジャックが愕然とする。慌てて自分の息の匂いを手で確認する。
「マジで……?」
「酒臭いのよ、さっきから」
トムが追い打ちをかける。
「あと、タバコもな」
ジャックは慌てて懐から煙草を取り出すと、地面に捨てて踏み消した。
「これで……これでどうだ!」
「遅いわ」
女性陣が笑いながら歩いていく。
「ちくしょう……」
ジャックが肩を落とす。
「船長との差は何なんだ……」
「全部だろ」
トムが肩を叩く。
「身長、顔、性格、料理の腕……」
「やめてくれ」
ジャックがうなだれる。
夕陽が、葡萄畑を赤く染め始めていた。
恋する者と、恋に憧れる者たちの、平和な一日が終わろうとしていた。




