第九十二話「普通の幸せ」
朝露が葡萄の葉を濡らす時刻、ニーナは目を覚ました。
薄暗い部屋の壁を見つめる。かつてベル家の娘たちが使っていたこの部屋には、生活の痕跡が刻まれていた。柱に残る背比べの傷——『リリー 8歳』『カレン 12歳』という文字が読める。壁には色褪せたクレヨンの絵、棚には埃を被った人形、本棚には『赤毛の騎士』や『森の妖精』といった童話が並んでいる。
クローゼットを開けば、年代物のワンピースやブラウスが整然と掛かっている。薄い花柄、淡い水色、優しいクリーム色——どれも愛情を込めて選ばれたものだと分かる。
(これが、普通の女の子の部屋……)
ニーナは深く息を吸い込む。木と布と、ほのかな石鹸の香り。
孤児院の冷たい石壁、染み付いたカビの匂い、薄っぺらい毛布、朝の配給を待つ列、取っ組み合いの喧嘩——
(あれは……夢だったんじゃないか?)
奇妙な感覚が広がる。実はずっとこの部屋で暮らしていて、孤児院での日々は悪夢だったのではないか。軍隊も、法力アーマーも、爆弾騒ぎも、全部——
「ニーナちゃん、起きてる?」
リリーの声とともにドアが勢いよく開く。朝の光を背負った彼女の笑顔が、部屋を明るくする。
「おはよう、リリー」
「今日はサーカスの日よ! 忘れてないでしょうね?」
リリーがベッドの端に腰掛ける。
「兄ちゃんとのデートでしょう?」
「デ、デートって……」
「何言ってるの、デートよデート! 二人きりで街に行って、サーカス見て、美味しいもの食べて……」
リリーがクローゼットを開けて、服を物色し始める。
「これなんかどう? 水色のワンピース! 私が15歳の時に着てたやつ」
「でも、動きにくそう……」
「デートなんだから、可愛くなきゃダメよ! 兄ちゃんをメロメロにしちゃいなさい!」
「メ、メロメロって……」
ニーナの抗議も虚しく、リリーは次々と服を取り出していく。
「あ、これも可愛い! でも、ニーナちゃんは小柄だから、裾が長いかな……」
そこへマルタも顔を出した。
「あら、選んでるのね。じゃあ、私も手伝うわ」
「お母さんも!?」
「当然でしょう? 大事な日なんだから」
二人がかりでコーディネートされる間、ニーナは不思議な感覚に包まれていた。
(そうだ、デート……デートなんだ)
その言葉の響きが、妙に心地よい。普通の女の子が、普通に経験すること。
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葡萄畑での朝の作業を終え、昼過ぎになってガランがニーナを迎えに来た。白いシャツに茶色のベスト、首にはさりげなくスカーフを巻いている。
「準備できたか?」
「は、はい」
水色のワンピースに麦わら帽子、足元は歩きやすい革靴。リリーとマルタが選んでくれた格好は、田舎の令嬢のようだった。
「……似合ってるぜ」
ガランの一言に、頬が熱くなる。
「本当ですか?」
「ああ。まるで最初からうちの家族みたいだ」
その言葉に、ニーナの胸が高鳴った。
街への道中、二人は他愛のない話をした。
「今年の葡萄は出来が良さそうだな」
「そうですね。糖度も高いって、お父さんが言ってました」
「親父が? へえ、お前と話すようになったのか」
「はい。ワイン造りのこと、色々教えてくれます」
「そうか……」
ガランが微笑む。7年ぶりに実家に戻って、こんな穏やかな会話ができるとは思っていなかった。
「モニカはどうしてる?」
「朝から妹たちとワイン工場で瓶詰めしてます。『こういうの楽しい!』って」
「あいつああいう作業みたいなことが好きなんだよなぁ」
荷馬車が通り過ぎ、土埃が舞う。ガランが自然にニーナを風上に移動させる。その何気ない優しさに、ニーナは心が温かくなった。
(これが、普通の人生……)
街に着くと、サーカスの賑わいが二人を包んだ。赤と黄色の縞模様のテント、陽気なアコーディオンの音色、ポップコーンの甘い香り、子供たちの歓声。
「わあ……!」
ニーナが思わず声を上げる。
「こんなに大きなサーカス、初めて見ます」
「年に一度の大サーカス団だからな。俺も子供の頃、親父に連れてきてもらったよ」
「そうなんですか」
「ああ。妹たちも一緒にぞろぞろと。リリーなんか、ピエロが怖くて泣いてたっけ」
二人で笑い合う。まるで昔からの知り合いのような、自然な空気が流れていた。
「ちょっとベンチで待ってて。飲み物買ってくる」
「あ、私も——」
「いいから。すぐ戻る」
ガランが人混みに消えていく。
ベンチに座ったニーナは、道行く人々を眺めた。家族連れ、恋人たち、友人同士。みんな楽しそうに笑っている。
(私も、あの中の一人……)
ふと視線を感じる。金髪に赤い瞳、陶器のような白い肌。町娘の服を着た生きた人形のような姿は、確かに人目を引いていた。
「あの子、サーカスの役者かしら?」
「綺麗ねえ……本物のお人形さんみたい」
「外国の人かな?」
囁き声が聞こえてくるが、ニーナは気にしなかった。今はただ、この平和な時間を噛みしめていたかった。
「待たせた」
ガランが林檎ジュースを二つ持って戻ってきた。冷たい瓶が汗をかいている。
「ありがとうございます」
瓶に口をつける。冷たいジュースが喉を潤す。甘酸っぱい味が、舌の上で弾けた。
「美味しい……」
「地元の林檎を使ってるんだ。うちのワインより人気があるかもな」
「そんなことないです。ベル家のワインは最高です」
「はは、ありがとう」
(うーん、どうする?)
ジュースを飲みながら、ガランは内心で葛藤していた。
(親父のやつ、朝から『一発決めてこい』とか『そろそろ孫の顔が見たい』とか言いやがって……母さんまで『ニーナちゃんをお嫁さんにもらっちゃいなさい』って……)
昨夜から今朝にかけて受けた家族からの激励(?)を思い出す。
(でも、10歳以上離れてるし……俺は30で、ニーナは17……ちょっと犯罪か? 確かに俺ももういい歳だし、同級生はみんな子持ちだし……同級生は若い子と結婚したやつもいたっていうし…)
「ガランさん?」
「あ、ああ、何でもない」
ニーナの声で我に返る。心配そうに覗き込む赤い瞳が、妙に愛おしかった。
「具合でも悪いんですか?」
「いや、大丈夫だ。ちょっと考え事を」
(ニーナの気持ちがどうかも分からないし……でも、嫌なら実家についてきたりしないよな……毎日俺の傍にいるし、料理も洗濯も……)
「あの、ガランさん」
「ん?」
「今日は、ありがとうございます。誘ってくれて」
ニーナの頬が薄く染まる。
「こういうの、初めてで……」
「こういうの?」
「その……デート、です」
(デート!)
ニーナ自身がそう認識していることに、ガランの鼓動が早まった。
(よし、今は単純にデートを楽しめばいいんだ! エスコートして、見世物を見て回って……それ以外にやることなんてない!)
「さあ、中に入ろうか」
ガランが立ち上がり、手を差し出した。一瞬の躊躇いの後、ニーナはその手を取って立ち上がる。手が触れた瞬間、電気が走ったような感覚がした。
サーカスのテントの中は、別世界だった。
高い天幕の下、円形の舞台が広がる。観客席は人でぎっしりと埋まり、期待に満ちた熱気が充満していた。
「すごい……!」
空中ブランコが始まる。きらびやかな衣装の男女が、目もくらむような高さで飛び交う。
「あっ!」
ニーナが思わずガランの腕を掴む。危なっかしい演技に、心臓が止まりそうだった。
「すっげぇよなあプロって、落ちそうで落ちねえんだ」
ガランが優しく言うが、ニーナの手は離れない。
続いて火の輪くぐり、猛獣使い、ピエロの曲芸。ニーナは子供のように目を輝かせて見入っていた。
「楽しんでるな」
「はい! こんなの、夢みたいです」
(夢……)
そう、まるで夢のようだった。冷たい孤児院、厳しい軍隊生活、血なまぐさい戦い——あれが現実で、今が夢なのか。それとも逆なのか。
演目が終わり、二人はテントの外に出た。日は西に傾き始め、屋台に明かりが灯り始めていた。
「お腹空いた?」
「はい……」
「よし、何か食べよう」
屋台が並ぶ通りを歩く。焼き鳥の香ばしい匂い、綿あめの甘い香り、焼きそばのソースの匂い。
「何が食べたい?」
「全部!」
思わず口走って、ニーナは慌てて口を押さえた。
「あ、すみません……」
「いいよ、全部食べよう」
ガランが笑って、次々と買い込んでいく。
ベンチに座って、二人で分け合いながら食べる。
「美味しい!」
焼き鳥を頬張るニーナ。タレが口の端についているのを、ガランがハンカチで拭いてやる。
「子供みたいだな」
「す、すみません……」
「いや、可愛いよ」
さらりと言われて、ニーナの顔が真っ赤になる。
(可愛い、って……)
綿あめを食べながら、ニーナは思った。甘くて、口の中で溶けていく幸せ。これが普通の幸せなのだろうか。
日が暮れ始め、街灯が一つ、また一つと灯っていく。
「そろそろ帰るか」
「……はい」
名残惜しそうに立ち上がるニーナ。楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。
家路につく道すがら、ニーナは何度も今日のことを思い返していた。
(デート……本当にデートだった)
横を歩くガランを盗み見る。街灯の光が、彼の横顔を照らしている。
(この人と、ずっと……)
思い切って、ニーナはそっとガランの手に触れた。小指が、かすかに触れる。
(ええい、ままよ!)
ガランは思い切ってその手を握り返した。大きな手が、ニーナの小さな手を包み込む。
「あぁ……」
ニーナが小さく息を漏らす。温かくて、大きくて、頼もしい手。ざらついた掌の感触が、現実だと教えてくれる。
(そうだ……人生に足りなかったのはこれだ)
催しを楽しんで、美味しいものを食べて、優しくて強い男と家に帰る。手を繋いで歩く。夕暮れの道を、二人で。
これが、普通の幸せな人生。
感極まったニーナは、思わず力を込めて握り返した。
「いったあ!?」
ガランが突然かがみ込む。法力を込めた握力は、常人には耐えがたいものだった。
「す、すいません! つい……!」
慌てて手を離すニーナ。
「いててて……はは、力持ちなのね」
ガランが苦笑いを浮かべながら手をさする。指が変な方向に曲がりかけていた。
「本当にごめんなさい……私、力の加減が……」
「いや、大丈夫だ。ちょっとびっくりしただけで」
ガランが優しく笑う。その笑顔に、ニーナは救われた。
夕闇が二人を包み始める。街灯の明かりがガランの横顔を照らす。
鋭い目つき、高い鼻梁、無精髭の跡、そして意外に柔らかそうな唇。
ニーナの瞳孔が、暗闇と興奮で大きく開く。心臓が早鐘のように打つ。全身の血が沸騰するような感覚。
(もう、我慢できない)
衝動的に、ニーナはガランの襟元を掴んだ。
「ニーナ?」
返事の代わりに、ニーナは背伸びをして、思い切り唇を重ねた。
「んもっ!?」
ガランの驚愕の声が、唇越しに響く。
林檎ジュースの味、綿あめの甘さ、焼き鳥の香ばしさ——全てが混ざり合った味がした。
道行く人々が、一瞬足を止める。夕暮れの中、身長差のある二人が抱き合う姿は、絵画のようだった。
「あら、若いっていいわねえ」
老婦人が微笑ましそうに通り過ぎる。
「おいおい、人前で……でも羨ましいな」
中年男性が苦笑する。
「ロマンチックね」
「俺たちもしようか?」
「もう、ばか」
若いカップルが囁き合いながら通り過ぎる。
しかし、すぐに人々は興味を失い、二人は街の風景の一部となっていく。夕暮れ時の恋人たち——それ以上でも以下でもない、ありふれた光景として。
長い、長い口づけの後、ようやくニーナが顔を離した。
「……ニーナ」
ガランの顔が真っ赤に染まっている。耳まで赤い。
「ごめんなさい、でも……我慢できなくて」
「いや、その……」
言葉に詰まるガラン。しかし、その手はしっかりとニーナの肩を抱いていた。大きな手が、震えている。
「……続きは、家に帰ってからだ」
小さく呟いたガランの言葉に、ニーナは頷いた。
手を繋ぎ直して歩き始める二人。今度は、ガランがしっかりと握っていた。
月が昇り始めた空の下、葡萄畑への道を進む。虫の音が響き、夜風が頬を撫でる。
(女帝? 皇族? そんな話、本当にあったのかな)
もはや、数日前の出来事が嘘のように思える。メルベルの顔も、エンキドゥの声も、ラムザの姿も、霞がかかったように曖昧だ。
(私は、ニーナ・クロウ。ガランの……)
まだ言葉にできない関係。でも、確かな温もりがそこにあった。手を繋ぐ、この温度こそが真実。
家の明かりが見えてきた時、リリーの声が響いてきた。
「おかえりなさーい! どうだった!?」
窓から身を乗り出す妹たちの姿。その後ろには、にやにやしている両親の顔も見える。
「ただいま」
「ただいま」
二人の声が重なる。
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翌朝、ベル家の食卓は妙な空気に包まれていた。
「おはよう」
ガランが席に着くと、両親の視線が突き刺さる。
「おはようございます」
ニーナが続いて座ると、マルタが意味深な笑みを浮かべた。
「よく眠れた?」
「は、はい……」
朝食を食べながら、ロベルトがガランを見る。昨日とは明らかに距離感が違う。まるで、息子が一人前になったかのような、認めるような眼差しだった。
「今日は畑の手入れをする」
「ああ、分かった」
ガランとニーナが外に出ていくと、ちょうど長女のソフィアが夫と一緒にやってきた。
「おはよう、父さん、母さん」
「おはよう。ちょうどいいところに」
マルタが手招きする。
「どうしたの?」
「兄さんとニーナちゃん、昨日相当遅く帰ってきたでしょう?」
「ええ、見てたわ」
ソフィアがにやりと笑う。
「手、繋いでたわよね」
「それだけじゃないわよ」
次女のカレンも合流してきた。
「朝の二人の雰囲気、全然違うもの」
「やっちゃったみたいね?」
三女のマリアまで加わる。
「一線超えたよね、絶対」
「ちょっと、あなたたち」
マルタが窘めるが、口元は笑っている。
「でも、良かったじゃない。兄さんもようやく落ち着く気になったのよ」
ソフィアが満足そうに頷く。心の中では『やっと一人前になったか』と思っていたが、口には出さない。
ロベルトがワインを一口飲んで、ため息をつく。
「この歳まで迷惑かけおって……」
「まあまあ」
マルタが宥める。
「結果よければ全て良しでしょう? あんな可愛い娘を連れてきて」
「確かにな。あの子の器量だったんだな」
ロベルトも認めざるを得ない。
「今じゃ一人で始めた輸送業の社長だ。聞けば国のお偉い様とも知り合いだそうじゃないか」
「メルベル様でしょう? 大元帥よ」
カレンが目を輝かせる。
「すごいコネクションよね」
「ふん」
ロベルトが鼻を鳴らす。
「あいつが盗んだ飛空艇で、どんな大損こいたか……」
「父さん」
「いや、もういい。やっとこれでチャラだ」
ロベルトが手を振る。
「これでスタートだ。今までがマイナスだったんだ」
「あら、じゃあプラマイゼロってこと?」
リリーが茶化すと、ロベルトが苦笑した。
「まあ、そんなところだ」
「でも、ニーナちゃんという宝物を連れてきたんだから、大幅プラスよ」
マルタが優しく言う。
「あの子、本当にいい子だもの。料理も上手だし、働き者だし」
「それに美人」
「リリー!」
「だって本当のことじゃない」
妹たちが笑い合う中、ロベルトは窓の外を見た。
葡萄畑で、ガランとニーナが並んで作業をしている。時々目が合って、照れくさそうに笑い合う姿は、確かに恋人同士のそれだった。
「まあ、幸せならいいさ」
ロベルトが呟く。
「そうね」
マルタも頷いた。
「あの二人なら、きっとうまくやっていけるわ」




