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第九十話「逃避の理由」



ベル家の農園に広がる葡萄畑は、初夏の陽光を受けて緑に輝いていた。広大な敷地の一角にある母屋から、賑やかな声が聞こえてくる。


「ニーナちゃん、その包丁の使い方上手ねぇ!」


ガランの母親・マルタは、台所でジャガイモの皮を器用に剥くニーナを見て感心の声を上げた。褐色の肌に刻まれた笑い皺が、温かな人柄を物語っている。


「孤児院で、調理当番があったから……」


ニーナは控えめに答えながら、手を止めない。17歳という年齢にしては手際が良すぎる。金髪が肩に掛かるのを耳にかけ直す仕草が、どこか所在なげだ。


「そう……大変だったのね」


マルタの声に同情が滲む。大鍋で煮込んでいるシチューをかき混ぜながら、ニーナの横顔を優しく見つめた。


「でもね、ニーナちゃん。過去は過去よ。今はもう一人じゃないでしょう?」


「……はい」


小さく頷くニーナの脳裏に、数日前の光景が蘇る。


---


『お前は、我がボム家の正統な継承者だ』


皇居の豪華な応接室で、エンキドゥ・ボムは厳かに告げた。その隣では、メルベルが腕を組んで立っている。向かいのソファには、13歳とは思えない威厳を纏ったラムザが座っていた。


「は? 何の冗談ですか?」


ニーナは思わず笑い出した。しかし、誰一人として表情を崩さない。


「冗談ではない」


メルベルが淡々と検査結果の書類を差し出す。血縁鑑定、DNA解析、法力特性分析——全てが、ニーナがアジョラ9世とエンキドゥの娘であることを示していた。


「だから何? 私は孤児院育ちの——」


「なぜ隠れ家の扉が開いたと思う?」


メルベルの問いかけに、ニーナは言葉を失った。


「あれは初代女帝ニイナと、始祖メルベル・ボムの血筋でなければ開かない。お前の法力値が異常に高いのも、血統が理由だ」


エンキドゥが重い口を開く。頭でっかちな軍人然とした口調が、ニーナには空々しく響いた。


「アジョラは、お前を守るために神殿の孤児院に預けた。幼い女児が皇位継承者だと知られれば、暗殺の標的になるからな」


「でも、その孤児院は帝紀584年に共和主義者の襲撃を受けた」


ラムザが静かに続ける。13歳の少年——自分の実の弟だと言われても、まるで実感が湧かない。


「母上は、お前が死んだと思い込んでいた。この日記を見ろ」


差し出された革装の日記。アジョラの筆跡で、娘への愛情と、失った悲しみが切々と綴られている。


『私の小さな光、ニーナ。お前を失って、世界は色を失った』


『なぜ守れなかった。なぜ、なぜ、なぜ——』


ページが涙で滲んでいる箇所もあった。


「これが……」


ニーナの手が震える。しかし、心は冷めていた。


今更、何を言っているのだろう。自分を17年も放置しておいて、都合よく女帝になれと? メルベルに叩きのめされた記憶はまだ新しい。目の前の「父親」は政治家の顔しか見せない。ラムザは聡明そうだが、頼りない少年にしか見えない。


「今から、女帝としての責務がある」


エンキドゥが続けた。


「帝国の安定のため、お前には——」


「なんで今更なんですか?」


ニーナが遮った。


「17年間、私がどんな生活してたか知ってます? 冬は凍えて、夏は腐った食べ物で腹を壊して、それでも必死に生きてきたんです。で、今更『実は姫様でした』って? 冗談じゃない」


「ニーナ、それは——」


「お断りします」


きっぱりと言い切った。


「私には、もう家族がいます。血のつながりなんかより、ずっと大切な」


そして立ち上がった。


「ちょっと、考える時間をください」


「もちろんだ。だが、長くは待てない」


メルベルの言葉を背に、ニーナは部屋を出た。そして——


そのまま逃げ出した。


---


「ニーナちゃん? 大丈夫?」


マルタの声で、ニーナは現実に引き戻された。


「あ、はい! すみません、ぼーっとしてて」


「無理もないわ。大変な目に遭ったんでしょう?」


台所の扉が勢いよく開いた。


「ニーナちゃん!」


駆け込んできたのは、ガランの末の妹・リリー。20歳になったばかりの彼女は、ニーナより3つも年上だが、この小さくて可愛らしい少女を自分の妹のように思っていた。


「見て見て! 新しいリボン買ったの! ニーナちゃんの髪に結んであげる!」


「リリーさん、でも私……」


「リリーでいいよ! ねえ、このリボン絶対似合うから! 私がお世話してあげる!」


リリーの純粋な笑顔に、ニーナは胸が締め付けられた。


(こんな優しい世界があったんだ)


孤児院の冷たい石壁、配給の列、殴り合いの喧嘩——そんな日々しか知らなかったニーナにとって、この農園は夢のような場所だった。


「リリー、ちょっと手伝って」


長女のソフィアが顔を出した。彼女はすでに結婚して別の家に嫁いでいるが、実家の農場が近いため頻繁に顔を出す。


「カレンとマリアも来てるわよ。みんなでワインの瓶詰めするって」


「わーい! ニーナちゃんも一緒に行こう!」


手を引かれて外に出ると、ワイン工場の前でガランが樽を運んでいた。まだ完治していない傷を庇いながらも、慣れた手つきで作業をこなしている。


「お、ニーナか。リリーに捕まったな」


「兄ちゃん、ニーナちゃんは私の妹だから!」


リリーが頬を膨らませる。その様子に、ガランは苦笑した。


「あー、いつも妹ほしいとか言ってたよな、おいニーナあんまり大人しくしてると後々面倒だぞ」


「何よ面倒って! ニーナちゃんはね!心の妹なの! こんなに可愛い子、絶対守ってあげなきゃ!」


ふと、ガランの腰に下げた通信機が鳴った。


「ちょっと失礼」


少し離れて通信に出るガラン。相手はディアスのようだった。


『ガラン君、ニーナ君を知らないか?』


「は? 何の話です?」


『実は、メルベル様と一緒にどこかに行ったきり、戻ってこないんだ。何か知ってたら教えてくれないか?』


ガランはちらりとニーナを見た。リリーと楽しそうに話している姿は、とても皇族には見えない。


「いや、知りませんけど。あの時、大元帥と一緒にどこかに行ったでしょう? 何かあったんですか?」


『いや、ちょっとした行き違いでね。見かけたら連絡してくれ』


「了解です」


通信を切ったガランは、何食わぬ顔で作業に戻った。


(勧誘がしつこいな……ニーナも面倒なのに絡まれたもんだ)


夕方、家族全員と船員たちが大きな食卓を囲んだ。


「今日の収穫はどうだった?」


ガランの父・ロベルトが口を開く。かつては息子と絶縁状態だったが、今回の一件で関係は改善しつつあった。


「まあまあですね。今年は豊作になりそうです」


次女のカレンが答える。彼女も結婚しているが、収穫期は実家を手伝いに来る。


「ニーナちゃんも手伝ってくれたのよ」


三女のマリアが微笑む。


「器用だし、覚えも早いし、本当に助かったわ」


褒められて、ニーナは照れくさそうに俯いた。


(これが、家族……)


孤児院で密かに夢見ていた光景。背の高い優しい父親、料理上手な母親、賑やかな兄弟姉妹。そして今、それ以上のものがここにある。


血のつながった冷たい「家族」より、この温もりの方がずっと——


「ニーナちゃん」


マルタが優しく声をかけた。


「うちの娘になっちゃいなさいよ」


「え?」


「だって、もう家族みたいなもんでしょう? みんなあなたのこと大好きだし」


「そうそう!」


リリーが飛び跳ねた。


「ニーナちゃんは、もう私たちの妹だもん!」


「もうお姉ちゃん気取りかよ」


ガランが突っ込むが、リリーは聞く耳を持たない。


「だから私がお姉ちゃんとして面倒見るの! こんな可愛い妹、ずっと欲しかったんだから!」


その無邪気な言葉に、全員が笑った。


モニカも酒を片手に言う。


「いいじゃない、ニーナちゃん。ここなら安全だし、みんな優しいし」


「でも……」


「難しいこと考えるなよ」


トムが豪快に笑った。


「俺たちも忘れんなよ! 俺たちはお前の味方だぜ!」


ジャックも頷く。


「そうそう。変な奴らが来たら、俺たちが追い返してやるさ」


船員たちの言葉に、ニーナの目が潤んだ。


(私は、もう選んだんだ)


17年越しの実の家族なんて、もう要らない。腹の探り合いばかりの宮廷より、この素朴で温かい場所がいい。


「ありがとう……みんな」


ニーナが涙を拭う。その姿を、ガランは静かに見守っていた。


(いつまで、守ってやれるかな)


窓の外では、葡萄畑に夕陽が沈んでいく。平和な時間は永遠ではない。だが今は、この幸せを大切にしよう。


「さあ、もっと食べなさい!」


マルタが料理を取り分ける。


「ニーナちゃんは細すぎるわ。もっと太らなきゃ」


「えー、でも……」


「いいからいいから!」


賑やかな食卓は夜遅くまで続いた。


家の外では、番犬が尻尾を振りながら見回りをしている。葡萄の葉がそよ風に揺れる。虫の声が聞こえる。


ニーナは深呼吸をした。今夜も、この農園で眠ることができる。明日も、きっとリリーが朝から騒がしく起こしに来るだろう。


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