第七十二話「退職願」
療養という名の束の間のバカンスが終わると、ニーナは雷牙号から軍の駐屯地へと足を向けた。港町の朝の空気は清々しく、彼女の足取りも軽やかだった。
ブレイド詰所の重厚な扉を開けると、ディアス隊長が書類仕事に追われているのが見えた。
「隊長、お疲れ様です」
「おお、ニーナ」ディアスは顔を上げた。「体調はどうだ? もう大丈夫なのか?」
「はい。それで......実は、お話があります」
ニーナは姿勢を正して、準備していた言葉を口にした。
「軍を退職したいと思います」
ディアスの手が止まった。予想はしていたが、実際に聞くと複雑な気持ちになる。
「そうか......残念だが、仕方ないな」
彼の声には本心からの残念さが込められていた。ニーナは確かに優秀な隊員だった。しかし同時に、自分たちの計画では彼女を助けることができなかった負い目もある。一週間という時間は、彼女にとっては永遠に感じられたかもしれない。
「医師からの診断書も拝見させてもらった」ディアスは机上の書類を手に取った。「RVウイルスの投与を受けていたとのことだが......」
それは深刻な問題だった。RVウイルス──かつて「不死の病」と恐れられた感染症。現在では治療可能だが、感染者が極度のストレス状態に置かれると、人ならざるものへと変化してしまう危険性がある。
「抗ウイルス薬の投与は順調に進んでいるようだな。あと一、二回の投薬で完全に排除できるとある」
ディアスは診断書を丁寧に読み上げた。
「ただし、高ストレス環境下での任務継続は推奨されない、と......」
医学的見地から見れば、軍人としての再起は確かに困難だった。規定に照らし合わせても、本人の意思を尊重するのが当然だろう。
「分かった。君の決断を尊重する」
ディアスは立ち上がって、ニーナの肩に手を置いた。
「短い間だったが、君と一緒に働けて光栄だった。本当にお疲れ様」
「ありがとうございました、隊長」
ニーナの目には、感謝の涙が浮かんでいた。それは完全に自然な涙だった。
「みんなを集めよう」ディアスは提案した。「せめて、ささやかな送別会をしたい。君への感謝を込めて」
一時間後、ブレイド詰所の一角に隊員たちが集まった。セラフィナ、レイ、そして他の隊員たちが、それぞれ小さな贈り物を持参していた。
「ニーナ、これ......」セラフィナが小さな包みを差し出した。「大したものじゃないけど、お守りよ」
「俺からはこれだ」レイが手作りのペンダントを取り出した。「安物だけど、幸運を運んでくれるって言われてるやつ」
一人一人からの心のこもった贈り物に、ニーナは本当に胸を熱くしていた。
「みなさん......ありがとうございます。本当に......」
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その後、ディアスは上司であるブレイド副隊長に連絡を入れた。
「副隊長、ディアスです。ニーナ・クロウの件でご報告が......」
法石通信機の向こうから、重厚な男性の声が返ってきた。
『ああ、例の捕虜事件の子だな。どうした?』
「退職の申し出を受けました。正式な手続きに入りたいと思います」
『そうか......』
副隊長の声に、深いため息が混じった。
『事情は理解している。あの状況では、我々の対応にも問題があった。彼女を責めるつもりはない』
「ありがとうございます」
『ブレイドとしての引退は了承する。だが、軍人としてはどうだ? 危険な任務ではなく、後方での書類仕事や整備業務という選択肢もあるが』
「実は......」ディアスは少し言いにくそうに続けた。「他に就職先を決めているとのことで......船の乗組員になりたいと」
通信機の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
『......船? まさか、あの雷牙号のことか?』
「はい」
『普通なら』副隊長の声に困惑が滲んだ。『トラウマを受けた場所から離れたいと思うものだが......』
確かにその通りだった。心的外傷を負った場所に、自ら戻りたがるというのは不自然に思える。
『まあ、個人の事情に深く立ち入るのも適切ではないか......』
副隊長は最終的に諦めたような口調になった。
『分かった。必要な書類を準備してくれ。できる限り迅速に処理する』
「ありがとうございます」
通信を切った後、ディアスは窓の外を眺めながら考え込んだ。
(あの船での出来事が、彼女にとってそれほど特別だったということか......)
ガラン船長の命を賭けた救出劇。それが彼女の心に深い絆を刻んだのかもしれない。家族を知らない孤児にとって、初めて経験した無償の愛だったのかもしれない。
「まあ、それならそれで......幸せになってくれればいい」
ディアスは小さく呟いて、退職手続きの書類作成に取りかかった。優秀な部下を失うのは残念だが、彼女の新たな人生を応援したい気持ちの方が強かった。
窓の外では、港に停泊している雷牙号が午後の陽射しに輝いている。そこが、ニーナにとっての新たな家族の住処となるのだろう。
書類にサインをしながら、ディアスは彼女の幸せを心から願っていた。




