第七十一話「完璧な演技」
街の中心部にある老舗の喫茶店「ブルーローズ」で、ニーナは繊細な花柄の描かれた陶製のコーヒーカップを両手で包みながら、心の奥底で昔の記憶を反芻していた。
店内には午後の客でにぎわう穏やかな喧騒があり、隣のテーブルでは年配の夫婦がケーキを分け合って食べている。その光景を横目で見ながら、ニーナの脳裏には四、五年前の記憶が鮮明に蘇っていた。
それは12歳の冬──孤児院の薄暗い教室で、寮長のマーサ婦人から「家族の絵を描きなさい」という課題を出された時のことだった。他の子供たちは皆、決められたルール通りに孤児院の職員や友達の絵を描いていた。それしか認められていなかったから。破った子は夕食抜きという罰則もあった。
しかし、ニーナには誰にも見せたことのない、密かに描き続けていた絵があった。
ベッドの下の板を外して隠していた、手製のスケッチブック。そこには大きくて優しそうな父親、柔らかい笑顔の母親、そして小さな茶色い犬と自分が一緒にいる家族の絵が何十枚も描かれていた。物心ついた時から想像し続けていた、決して現実にはならないイマジナリーな家族の姿。
父親は背が高くて肩幅が広く、いつも自分を肩車してくれる。母親は料理が上手で、毎日違うお菓子を作ってくれる。犬の名前は「チョコ」で、自分の後をいつもついてきてくれる。
(今思えば、本当に気の毒な戦争孤児の典型的な妄想)
当時、似たようなことをしている孤児は数え切れないほどいただろう。夜中にこっそり泣いている子、壁に向かって一人で家族ごっこをしている子、空想の両親に「おかえりなさい」と言っている子。
運の良い子は里親の元に引き取られ、本当の家族を手に入れる機会を得る。もちろん、血の繋がりのない他人だから、期待通りにいかないことも多い。時には心ない言葉をかけられたり、実子と比較されて辛い思いをすることもあるだろう。それでも孤児院の集団生活よりはマシだと自分に言い聞かせて、独立できる年齢まで歯を食いしばって耐え忍ぶ。
自分の場合は違った。持ち前の強気な性格が幸いしたのか、健康な体と人並み以上の頭脳、そして軍が重宝するわずかな法力の才能のおかげで、里親という不確実な道ではなく、すぐに就職という確実な道を選んだ。
親の愛情を知らない自分にとって、軍という厳格な組織は孤児院以外で初めて所属した「疑似家族」のようなものだった。そして意外にも、そこでは持ち前の負けん気と向上心で、割とうまくやれていた。
だが今、目の前にあるものは一体何なのだろう?
ガランは、あの頃ベッドの下で密かに描いていた理想の父親そのもの──いや、想像を遥かに超える素晴らしい存在だった。大きくて、優しくて、包容力があって、そして何より、赤の他人である自分のために本気で命をかけてくれる。
モニカも、まるで絵本から飛び出してきたような理想の姉だった。明るくて、面倒見が良くて、自分を本当の妹のように気にかけてくれる。
(この千載一遇のチャンスを逃してはいけない)
ニーナの胸の奥で、激しい焦燥感が渦巻いていた。他の孤児たちが生き抜くために必死に身につけていた「愛想笑い」──大人の機嫌を損ねないための処世術を、生まれて初めて本気で実践していた。
この感情は社会的に見て異常だろうか? 16歳の少女が30代の男性に抱く感情としては、確かに複雑すぎるかもしれない。しかし、もうそんなことを気にしている余裕はない。
ガランは時々困ったような表情を見せ、明らかに戸惑っている様子だった。しかし今必死にならなくて、一体いつなるというのか? 多少迷惑がられても、嫌がられても構わない。
ニーナは理想的な「妹」を、彼女の持てる全ての演技力を駆使して必死に演じていた。
心の奥底では、既に重大な決断を下していた。軍の方はもう辞める。完全に、きっぱりと。
敵の捕虜になって九死に一生を得た脱出劇、それに伴う心的外傷、得体の知れない薬物の投与──軍を退役するための理由は十分すぎるほど揃っていた。軍に戻れば、船にいる正当な理由がなくなってしまう。療養期間が終わり次第、すぐにでも正式な退職手続きを取るつもりだった。
喫茶店の温かい照明の下で、ニーナはコーヒーカップをそっとソーサーに置いた。磁器の触れ合う小さな音が響く。
「あの......実は......」
意を決したように、彼女は震え声で口を開いた。完璧に計算された演技の始まりだった。
「もう......怖くて戦場には行けないんです......」
それは巧妙に織り込まれた嘘だった。実際のところ、敵を殺すことへの躊躇いなど微塵もない。それどころか、次回はもっと巧妙に敵の動きを読み、待ち伏せを見破り、より効率的に標的を排除する自信すらあった。戦闘技術への興味も、向上心も、まったく衰えていない。
しかし、そんな真実はもうどうでもよかった。
「あの時......あと少しで......私は......」
ニーナの瞳に涙が滲んだ。それは完全な演技の涙ではなかった。ガランへの心からの感謝と、この居場所を失ってしまうかもしれないという切実な恐怖から生まれた、半分は本物の涙だった。
「ガランさんが助けに来てくださらなかったら......私はきっと......きっと......」
声が詰まる。完璧な表情と語調で、彼女は自分が軍人として精神的に再起不能になったことを、か弱く、痛ましげに、そして何より説得力を持って語った。
「ニーナちゃん......」
モニカは即座に疑いの気持ちを忘れ、母性本能に駆られるようにニーナの肩を抱いた。
「もう大丈夫よ。あなたはもう安全なところにいるのよ。誰も傷つけたりしないから」
その温かい腕の中で、ニーナは内心で安堵していた。
(なるほど、あの必死な感じはこういうことだったのね)
モニカは全てを理解したという表情で、心配そうにガランの方を見た。この数日間のニーナの異常な行動の原因が、ようやく腑に落ちたという顔だった。
ガランも完全にその説明を信じ込んでいる様子だった。いや、むしろニーナのここ数日の奇妙な行動──病院での監視のような行動や、影のように後をついて回る行為の理由が、ようやく合点がいったという表情を見せていた。
「そりゃあ......あんな目に遭ったら、ビビって当然だよな」
彼は一人で納得したように頷いていた。大柄な体を椅子にもたれかけながら、同情的な表情を浮かべている。
「心的外傷っていうやつなんだろうな......医者に診てもらった方がいいかもしれないが......」
「やっぱりウチに来なさいよ」
モニカが即座に提案した。彼女の声には迷いがまったくなかった。
「ねえ船長、もう家族みたいなもんじゃない… ニーナちゃんを一人にしておくなんてできないわ」
「そうだな......確かに......うん」
ガランは何となく頷いた。考えてみれば、ニーナが正式に船員になったところで困ることは一切ない。メカニックとしての腕は確かだし、モニカがこれほど気に入っているということは、女性陣との関係も良好だろう。
(まあ、これで自分の船の男女比が完全に女性優位になってしまうから、男性陣としてはちょっと肩身が狭くなるかもしれないが......)
そんな些細な心配は、目の前で涙を流している少女を前にしては、取るに足らないものだった。
「私たちみんなからも船長に頼んであげる」
モニカは完全に姉としての保護者モードに入っていた。まるで本当の血の繋がった妹を心配するような、母性愛と姉としての責任感に満ちた表情で、世話を焼く気満々である。
「一人じゃきっと不安でしょう? 私たちがついてるから、何も心配しなくていいのよ」
ニーナは決して気を緩めることなく、涙ながらに頷いて心からの感謝を伝えた。
「ありがとうございます......本当に......こんなに優しくしていただいて......」
その涙は絶妙な配分だった。半分は計算された演技の涙で、半分は本心から湧き出る感謝の涙。ようやく手に入れることができそうな「理想の家族」への切実な感謝と、それを失ってしまうかもしれないという恐怖が入り混じった、非常に複雑で真実味のある涙だった。
喫茶店の大きな窓から差し込む午後の温かい陽射しが、三人が座るテーブルを優しく照らしている。レースのカーテン越しに見える光は、まるで映画のワンシーンのように美しく、穏やかだった。
周囲の客たちから見れば、心配する父親と姉、そして何か辛い体験をした少女という、微笑ましくも少し痛ましい家族の一コマに見えただろう。年配の店主も、時折心配そうにこちらを見やっている。
しかし、その平和で感動的な光景の裏で、一人の16歳の少女が人生のすべてをかけた完璧な演技を続けていることを、誰一人として知る由はなかった。
ニーナの頭の中では、既に詳細な計画が組み上がっている。軍への退職願、船員としての正式雇用、そして何より、この「家族」の一員として認められるための長期戦略。
彼女の瞳の奥で、孤児院時代から燃え続けていた炎がより強く輝いていた。それは家族への憧憬の炎であり、同時に、その夢を現実にするためなら何でもするという、静かだが強烈な決意の炎でもあった。




