第六十七話「目覚めの代償」
雷牙号の医務室で、ニーナの瞼がゆっくりと開いた。
天井の照明が眩しく、思わず目を細める。頭の中で何かが激しく脈打っている。まるで巨大なハンマーで頭蓋骨を内側から叩かれているような、容赦ない痛みだった。
(なんだこれ......まるで酒に潰れた翌朝みたいな......)
軍隊生活で酒を飲む機会などほとんどなかったが、孤児院時代に年上の子たちが密造酒を飲んでいるのを見たことがある。あの時の彼らも、こんな顔をしていただろうか。
意識がぼんやりとしている中、突然温かい腕に包まれた。
「起きた! 起きたのね、ニーナちゃん!」
モニカの声が震えていた。喜びと安堵が混じり合った、涙声だった。
「ちょ......待ってよ、モニカ......頭にマジで響く......」
ニーナは呻きながら抗議したが、その声を聞いた途端、医務室が大騒ぎになった。
「ニーナ! 大丈夫なのか!」
「意識が戻ったぞ!」
「よかった......本当によかった......」
船員たちの歓声が一斉に響く。トムは安堵のあまり涙ぐんでいたし、ジャックは興奮して手をわきわきと振っていた。アザリアは胸に手を当てて、深く息を吐いている。
「うるさい......みんな、もうちょっと静かに......」
ニーナの弱々しい抗議も、皆の喜びの前では無力だった。
そこに、見慣れた船長帽を斜めに被った男が現れた。
「よお! 寝坊助め」
ガランの声は普段通り軽やかだったが、ニーナには何か違和感があった。彼の左腕に巻かれた包帯が、シャツの袖から微かに見えている。
船員たちの表情が一瞬で変わった。心配そうな視線がガランに向けられる。
「船長......なんでベッドに寝かしてないんですか」
トムが小声で囁いた。
「だって言うこと聞かないんだもん......」
アザリアが困ったような顔で答える。
「頑固すぎるのよ、あの人」
モニカまでが呆れたような口調で言った。
しかし、ガランは包帯を巻いた腕を自然に後ろに隠しながら、いつもの調子で笑っている。
「目が覚めて何よりだ! まったく、マジで手のかかるやつだよ、お前は!」
その飄々とした態度に、ニーナは安心感を覚えた。しかし同時に、ガランの声を聞いているうちに、記憶の断片が少しずつ蘇り始めた。
投網が頭上から降り注いだ瞬間の絶望感。手錠の冷たい金属が手首に食い込む感触。法力が封じられ、まるで普通の少女に戻ったような無力感。
基地の薄暗い取調室。注射器の針が腕に刺さる鋭い痛み。そして、あの青白い女の氷のように冷たい声。
『男たちを集めて。ただし、壊さないでね』
記憶はそこまでは鮮明だった。その後から曖昧になる。半裸の男がズボンを興奮して下ろしている光景。自分の胸元に伸びてくる乱暴な手の感触。服を無理やり脱がされ、誰かに見知らぬドレスを着せられた記憶。
そして──
ニーナは突然、自分の股間に手をやった。確認するように、恐る恐る触れる。
「ちょ、ちょっと! ニーナちゃん!」
モニカが慌てて飛び出し、男たちの視線を両手で遮った。顔を真っ赤にしながら、必死に壁を作ろうとしている。
「だ、大丈夫よ! あの......心配しなくても......」
モニカがニーナの耳元で、声を震わせながら囁いた。
「私も......その......確認したけど、まだ......無事だったから......何も......されてないから......」
ニーナの顔が青ざめた。まだ、という言葉が重くのしかかる。つまり、あと少しでも遅れていたら......。
ガランは少し表情を曇らせたが、すぐにいつもの調子に戻った。しかし、その笑顔の奥に、何か深い疲労のようなものが見え隠れしている。
「運が良かったぜ、お前は。連中、すげえ間抜けでよ」
彼は親指を立て、得意げにニヤリと笑って見せた。しかし、その笑顔を作るのに少し努力が必要そうだった。
「まあ俺が基地に乗り込んで、連中を派手にぶちのめして、お前をカッコよく助け出したってわけさ! どうだ、参ったか?」
「そ......そういえば......」
ニーナの記憶に、もう一つの断片が浮かんだ。薬で朦朧とした意識の中、誰かが部屋に入ってきた気配。自分を優しく担いで、車に運んでくれた温かい手。
「誰かが......私を......助けて......」
「そうだ!」ガランは胸を張った。「この俺様が颯爽と現れて、華麗にお前を救出してやったんだよ。感謝しろよな」
その時、ディアス隊長が重々しい口調で口を開いた。
「ニーナ、一旦この船での任務も、君の軍務も中止だ。何らかの薬物を投与されたようだからな......しっかりとした検査が必要だ。ガランさんも──」
言いかけた時、ガランが隊長の頭を軽くペシッと叩いた。
「痛い! 何をする!?」
隊長が抗議すると、ガランは苦笑いを浮かべた。
「肝心要のこいつがそんな二日酔い状態じゃ、戦力になりゃしねえからな......」
彼は肩をすくめて見せた。
「もう成果も十分出したし、今回はあの後、船員たちもかなりやばい目に遭った。ほとぼりが冷めるまで、街で稼いだ金でのんびり休養ってわけさ」
ガランはニーナに向き直った。その表情に、一瞬だけ本当の心配が宿った。
「じゃあな、お嬢ちゃん。水をたくさん飲んで、しっかり寝てろよ。それから必ず病院に行って、徹底的に調べてもらえ。いいな?」
立ち去ろうとするガランを見て、モニカが何か言いたそうに口を開いた。しかし、ガランの鋭い視線──まるで「余計なことは言うな」と警告するような目つきを受けて、彼女は口を閉ざした。
他の船員たちも、複雑な表情でため息をついている。皆、何かを隠しているような、言いたいことがあるのに言えないような顔をしていた。
「じゃあ、ニーナちゃん」アザリアが優しく言った。「街に着くまで、ゆっくり休んでいてね」
「そうそう、無理しちゃダメよ」
船員たちが次々とその場を離れていく。残ったのは、モニカ、レイ、セラフィナ、そしてディアス隊長だった。
医務室に静寂が戻ると、モニカがニーナの手をそっと握った。その手は微かに震えている。
「本当に......本当によかった......」
彼女の目には大粒の涙が浮かんでいた。
「あの時は、もうダメかと思って......ニーナちゃんがいなくなったら、私......私......」
普段は明るく振る舞うモニカが、声を詰まらせている。
セラフィナも、普段の高慢な態度を完全に忘れて、心配そうにニーナを見つめていた。
「私たちも......すごく心配してたのよ」
その言葉には、普段の競争心や嫉妬など微塵もなかった。純粋な、仲間への心配だけがあった。
「船長は......」レイが口を開きかけたが、途中で言葉を飲み込んだ。
「何? 船長がどうしたの?」
ニーナが身を起こそうとすると、頭痛がぶり返した。
「いや......」レイは困ったような顔で首を振った。「とにかく、無事でよかったよ、本当に」
しかし、ニーナには分かっていた。まだ聞かされていない真実があることを。そして、ガランが自分のために、とてつもなく大きなリスクを冒したであろうことも。
窓の外では、雷牙号が雲海の上を静かに飛んでいる。白い雲がゆっくりと流れ、夕日が空を染め始めていた。救出作戦は成功したが、その代償はまだ完全には明らかになっていない。
ニーナは天井を見つめながら、頭の中で記憶の断片を繋ぎ合わせようと努めていた。しかし、激しい頭痛がそれを阻んでいる。
(あの注射......一体何を打たれたんだろう)
不安が胸の奥で静かに渦巻いていた。しかし今は、仲間たちの温かさに包まれているだけで十分だった。モニカの手の温もり、セラフィナの心配そうな視線、レイの不器用な優しさ。
そして何より、ガランが命をかけて自分を救ってくれたという事実。
(ありがとう......)
心の中で呟きながら、ニーナは再び眠りの中へと沈んでいった。




