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第六十六話「死闘と勝利」



---


基地の奥で、リリスはニイナからの指示を反芻していた。その美しい顔に、冷酷な笑みが浮かんでいる。


『女をルカヴィ化させろ』


注射器の中身──RVウイルス。600年以上前から「アンデッド」「不死者」と恐れられてきた災いの原因である。感染力は極めて低く、600年前にルカヴィのモルガンという男が奇跡的に治療薬の原型を作り上げたおかげで、現在では治療可能な病気となった。しかし、それまでは絶対的な死の宣告だった。


ただし、ウイルスの発症には特殊な条件がある。保菌者が深い絶望の淵に沈み、精神が完全に崩壊した瞬間──その時、人間はルカヴィとして生まれ変わる。


だからこそ、捕らえた少女にウイルスを注射し、男たちの慰み者とするという残酷で確実な方法を選択したのだ。心を破壊するには、これ以上ない手段だった。


(あの奇妙な男......捕虜に可愛らしいドレスを着せていたわね、男の趣味って意味不明)


リリスは冷笑を浮かべた。青白い唇が歪む。


(二、三時間もすれば、新たな仲間の誕生というわけね。ニイナ様もお喜びになるでしょう)


任務の成功を確信していた、まさにその瞬間だった。


*ドーン! バチバチバチバチ!*


突如として響く爆裂音。天井のスプリンクラーが誤作動を起こし、基地内に水が降り注ぐ。一瞬にして、秩序だった基地が阿鼻叫喚の混乱に陥った。


「敵襲か!? 何が起きた!」


リリスも慌てて駆け出し、近くにいた部下の襟首を掴んで問い詰めた。


「答えろ! 状況を報告せよ!」


「わ、分かりません! 突然爆発が......」


部下の要領を得ない答えに舌打ちしながら、リリスは冷静さを取り戻そうと努めた。爆発音の方向を辿り、現場を確認する。廊下に置かれた木箱の中身が燃えている。


「花火......? まさか、こんな子供だましで」


その時、金髪の遊女たちが慌てふためいて走り回っている光景が目に入った。男たちが呼び込んだ女性たちが、まるで何かから逃げるように右往左往している。


リリスの鋭い頭脳が、瞬時に真相を導き出した。


(まさか......)


取調室に向かって駆け出す。扉を蹴破ると、一人の男が股間を押さえて悶絶していた。そして、椅子は空になっている。


「消えた......」


怒りが込み上げる中、リリスは先ほど見た男の顔を記憶から呼び起こした。どこかで見覚えがある顔。情報ファイルの写真が脳裏に浮かんだ。


「雷牙号の......船長!」


全てが繋がった瞬間、リリスの表情が恐ろしいほど歪んだ。


「よくも......よくもやってくれたわね!」


超人的な脚力で床を蹴り、一瞬で基地の外へ飛び出す。建物の屋上へと跳躍し、鷹のような鋭い目で周囲を見渡した。


遠くに、ノロノロと走る小型トラックが見える。助手席に金髪の女性とドレスの鮮やかな色が、わずかに見えた。


「逃がすものか!」


リリスの口から、獣のような咆哮が漏れた。


---


ガランは後ろから迫る悪夢のような追跡者を見て、冷や汗を流しながら拳銃を構えた。


「頼む、当たってくれ......!」


*パン!*


弾丸がリリスの額を直撃する。ガランの顔に一瞬、希望の光が宿った。


「やった! やったぞ!」


しかし、その希望は次の瞬間に絶望へと変わった。リリスは少しよろめいただけで、額の傷がみるみるうちに塞がっていく。


「嘘だろ......まじでバケモンじゃねえか!」


ガランの声に恐怖が滲んだ。アクセルを床まで踏み込むが、小型トラックの限界はたかが知れている。


「おい! ニーナ! 起きろ!」


隣の席でぐったりしているニーナの肩を激しく揺すった。


「あいつをなんとかしてくれ! お前しかいないんだ!」


しかし、ニーナは薬物の影響で意識朦朧としており、「うー......やめて......」と弱々しく呟くだけだった。


「やべえ......マジで死ぬ!」


無線機を掴んで叫ぶ。


「雷牙号! 雷牙号! バケモンに見つかった! 助けてくれ!」


無線の向こうから、モニカや船員たちの慌てた声が聞こえたが、リリスはもう目前まで迫っていた。


その瞬間──


リリスが車の側面に飛び付き、信じられない怪力でガランの胸ぐらを掴み上げた。


「うわああああ!」


ガランは車外に放り出され、硬い地面に叩きつけられた。全身の骨がきしみ、肺から空気が抜けていく。


「ぐ......うう......」


必死に銃を構えて発砲したが、リリスは軽やかなステップで弾丸を躱し、一瞬で間合いを詰めた。


「遊びは終わりよ」


リリスの冷たい声と共に、サーベルがガランの横腹を貫いた。


「がああああああ!」


激痛に顔を歪ませながらも、ガランは懐から大きな注射器を取り出し、リリスの首筋に突き刺した。


「なに、これ? 毒?」


リリスは眉をひそめたが、特に慌てる様子もなく、ガランを力任せに突き飛ばした。


ガランの腹部から大量の血が噴き出し、口からも赤い液体が溢れる。地面に倒れながらも、彼は苦笑いを浮かべた。


「だめか......銃が効かねえなら、毒でいけるかと思ったんだがな」


「残念だったわね。毒なんて効かないのよ」


リリスは首に刺さった注射器を引き抜きながら、勝ち誇ったように笑った。


「あなた、確か雷牙号の船長よね? なかなかやるじゃない。でも他の連中はどこ? ブレイドの仲間たちは見捨てて逃げたの?」


ガランは血を吐きながらも、笑いを止めなかった。


「へへへ......連中、結構薄情でよ。助けに来るのに一週間かかるっていうんだぜ? それじゃあ間に合わねえからな......」


「一週間後? それじゃあ、あの子が妊娠してからね」


リリスは肩をすくめて見せた。


「そういうことだ。ふがいねえから、俺が代わりに......」


ガランは腹部を押さえながら言った。視界がぼやけ始め、体温が急激に下がっていくのを感じている。


(やべえ......出血がひどすぎる。痛みが感じなくなってきたってことは......)


「でも無駄だったわね、お生憎様。あの子にはちょっと用事があるの。あなたが死んだと知れば、もっと絶望が深まるでしょうしね」


リリスは余裕綽々で近づいてくる。


ガランは霞んできた視界の中で、最後の銃を取り出した。


「その玩具じゃあ私は殺せないわよ? 分かってるでしょう?」


「そうかもな......でも、これが最後の一発なんだよ。外したら本当におしまいだ。へへ」


ガランの声には、不思議な余裕があった。


「じゃあ、最後の思い出に撃たせてあげる。案外いい男だったわよ、あなた」


リリスは嘲笑を浮かべながら、ガランを抱きかかえられるほど近くまで歩み寄った。


その瞬間──


*ズドン!*


至近距離からの銃弾が、リリスの胸部を貫いた。


最初は平然としていたリリスだったが、数秒後、その表情が困惑に変わった。口から血が滲み出し、青白かった顔に赤みが差してくる。


「な......何これ......?」


よろめきながら後退するリリス。ガランは力を振り絞って立ち上がった。


「あの姉ちゃんたちから......買っておいたのさ。RVウイルスの治療薬ってやつを。バケモンに効くんじゃねえかと思ってな......」


ガランは血を吐きながらも、満足そうに笑った。


「実はな、遊女の一人がRVウイルス患者だったんだよ。老いないことを武器にした弱いルカヴィ。遊女にゃ多いんだよなあ、あえて治さない奴......結構ふんだくられたよ、足元見られてな......へへ」


彼の声には皮肉な笑いが混じっている。


「けど効果覿面だな。一発じゃ完治ってわけにはいかねえが、銃が効くくらいには戻ったみてえだな......」


「あんた......今の顔色の方がずっと美人だぜ」


リリスは自分の腕を見つめた。青白い肌に、確かに人間らしい血色が戻っている。


「まさか......こんなところで......人間に戻るなんて......」


その言葉を最後に、リリスは地面に崩れ落ちた。


ガランは後ろから迫る共和主義者たちの車を見て、最後の力を振り絞って自分の車に向かった。


---


雷牙号は既に離陸準備を完了していた。遠くから小さなトラックが武装車両に追われているのを発見すると、船の全火器が火を噴いた。


「船長を援護しろ!」


「追っ手を蹴散らせ!」


ガランは隊員たちの助けを借りて、意識不明のニーナを船内に運び込んだ。


雷牙号のエンジンが唸りを上げ、急上昇を開始する。眼下に共和主義者の基地が小さくなっていく。


船員たちが歓声を上げた。


「やったぞ! やりやがった!」


「ざまあみろ、クソ野郎ども!」


「船長万歳!」


ガランも最後の力を振り絞って雄叫びを上げた。


「ほおおおおお! 見やがれ! 俺は死神だって騙してやったぜ! 不死身のガラン様の凱旋だ!」


しかし、勝利の雄叫びが終わると同時に、緊張の糸が切れた。


「うっ......」


ガランはその場にどうと倒れ込んだ。


格納庫には勝利の歓声が響いていたが、二人の英雄──傷ついた船長と眠り続ける少女が、静かに横たわっていた。


モニカが慌てて駆け寄る。


「船長! 船長、しっかりして!」


「医務室に運べ! 急げ!」


雷牙号は勝利と共に、雲海の彼方へと飛び立っていった。

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