第六十二話「船長の決断」
雷牙号の中に重い沈黙が流れていた。
格納庫では、ニーナが作りかけたままのパイがテーブルに残されている。収穫祭の飾り付けも、彼女の不器用な手作りのまま宙に揺れていた。
「どうする?」
ディアス隊長の問いかけに、誰もすぐには答えられなかった。
ガランは操縦席で無線機を調整していた。近距離の通信を傍受し、断片的な情報を拾い集める。雑音に混じって聞こえてくる声の中に、手がかりがあるはずだった。
『......移送完了......基地で待機......』
『......生きたまま......指示通り......』
「殺されてはいない」ガランが振り返った。「どうやら、近くにある共和主義者の基地に移送されたらしい」
ディアスの表情が険しくなった。
「基地だと? 隠れ家とは規模が違う」
「ああ。要塞化されてるし、人数も段違いだ。俺たちだけで何とかなる相手じゃない」
セラフィナが地図を広げた。
「輸送車両を狙えば......」
「あの女も護衛についてるはずだ」レイが首を振った。「リリスがいる限り、少数での奇襲は無謀すぎる」
ディアスは腕を組んで考え込んだ。
「情報収集が先決だな。他の班と連携し、メルベル大元帥、そして副隊長とも相談する必要がある。基地の見取り図、警備体制、脱出経路......全てを検討してからでないと」
「一週間は必要でしょうね」セラフィナが付け加えた。
ガランは無言で頷いた。確かに、彼らに任せておけばニーナの命は助かるだろう。何らかの理由があって生け捕りにしたのだから、すぐに殺すことはないはずだ。
しかし、彼の脳裏には別の懸念があった。
(あの連中が16歳の女の子を捕まえて......)
共和主義者たちの残虐な手口は、空の民の間でも語り継がれている。特に、自分たちを苦しめた軍人に対する「報復」は、目を覆いたくなるほど陰惨だった。
ガランの視線が、テーブルの上のパイに向かった。温め直すのを待っていたであろう、ささやかな約束の品。そして、彼女が一生懸命に作った収穫祭の飾り付け。
(一週間......間に合わない)
命は助かっても、それはもうあの無邪気な少女ではなくなっているだろう。
(待て、何考えてるんだ)
ガランは自分を諫めた。
(客だろうが。軍人じゃねえか。それ込みで危険を承知で軍人やってるんだ......俺が今更、英雄気取りで首突っ込んでどうするんだ)
理性的な部分が警告を発する。他の船員を巻き込むわけにはいかない。自分のわがままに付き合わせて命をかけろなんて言えない。第一、自分がそこに行ったところで上手くいくはずもない。まず間違いなく無駄死にだ。
しかし、収穫祭の飾り付けが風に揺れるたびに、彼女の笑顔が浮かんでくる。「船長、見てください! 上手にできました!」と無邪気に喜んでいた顔。
(それじゃあ間に合わないんだ......)
ガランの内心で、苦しさと良識と理性がせめぎ合っていた。
ディアスはすぐに本部との通信を開始した。
「こちらディアス小隊。緊急事態につき救出作戦の支援を要請する」
通信の向こうから、メルベル大元帥の副官の声が返ってきた。
『状況を報告せよ』
「ニーナ・クロウが共和主義者に拉致された。生存は確認済み、基地への移送途中と推定」
『了解した。救出部隊を編成する。詳細な情報を送れ』
ディアスは地図を広げ、セラフィナと共に情報を整理し始めた。基地の位置、警備体制の推定、脱出後の隠れ場所、回収ポイントの選定。
「ここが最適な潜入ルートだ」セラフィナが地図に線を引いた。
「脱出は北側の崖から。ここなら飛行艇での回収が可能だ」レイが補足した。
一時間ほどで、荒削りながらも実行可能な計画の骨子が出来上がった。
「決行は一週間後」ディアスが結論を下した。「それまでに詳細を詰める」
その言葉に、ガランは項垂れた。
(やっぱり間に合わない)
どう考えても無謀な行動だ。英雄気取りで死んでしまうに決まっている。プロに任せればいい。そう頭では分かっていた。
しかし、気がつくと口が動いていた。
「なんとかなるかもしれねえ」
全員の視線がガランに向いた。
「あの基地には......伝手がある。業者を装って入れるかも」
「何?」ディアスが眉をひそめた。
「似たようなことをしたことがある......その時は荷物だったが」
船員たちが顔を見合わせた。モニカが身を乗り出した。
「どういうこと? 船長、あんたまさか......」
「やめておけ」ディアスが割り込んだ。「これは我々の問題だ。そんな行き当たりばったりでは上手くいかない。仮に基地に入れても、脱出は無理だ。部外者が囚人一人を連れて行くなんて、奴らもそこまで杜撰じゃない」
「我々に任せろ、一週間準備をすれば確実に救出できるんだ」
しかし、ガランの中で何かが弾けた。
「それじゃあ間に合わねえんだよ!」
彼の怒声が格納庫に響いた。
「連中が捕まえた女をどうするか、聞いたことあるか? そんな一週間もじっくり準備してたら、命は救われても意味ねえんだ!」
(言っちまった......)
ガランは内心で後悔したが、もう後戻りはできなかった。
しかし、船長としての義務もある。航空連盟の規約にもはっきりと定められている。「船長は不当な理由でクルーを危険に晒してはいけない」。
「迷惑な話なのは分かってる」ガランは苦い顔をした。「全部俺の独りよがりさ」
彼は副船長格のトムを呼んだ。
「俺が不在の時は、お前が船長だ」
ガランは自分の帽子を脱いで、トムの頭に被せた。
「ちょっと! 何言ってるの?」モニカが慌てた。「バカなことやめてよ!」
「船長!」アザリアも顔を青くした。
ガランはディアスに向き直った。
「すまない。あんたらに迷惑をかけるかもしれねえが......一応、俺なりに勝ち目はある。あんたらの仕事の邪魔をしたいわけじゃねえんだ」
彼は倉庫から荷物を運び出し、雷牙号に搭載されている小型の輸送車両に積み込み始めた。
「船長、正気か?」トムが帽子を握りしめた。
「正気じゃねえよ」ガランは苦笑した。「でも、やるしかねえんだ」
モニカが駆け寄った。
「私も行く!」
「ダメだ」ガランは首を振った。「これは俺の問題だ」
「ニーナちゃんは私の友達よ!」
「だからこそダメなんだ」ガランは彼女の肩に手を置いた。「お前まで失うわけにはいかねえ」
輸送車両の準備が整った。小さな飛行能力を持つ車両で、一人か二人なら十分に運べる。
「本当に行くのか?」ディアスが最後に尋ねた。
「ああ。でも心配すんな」ガランは振り返った。「死ぬつもりはねえよ。あの子を連れて帰ってくる」
彼は車両に乗り込んだ。エンジンが唸りを上げる。
「みんな、後は頼んだ」
輸送車両は雷牙号から離れ、山間部へと向かっていく。その後ろ姿を見送りながら、船員たちは言葉を失っていた。
「無謀すぎる......」セラフィナが呟いた。
レイは頭を掻いた。
「あれだけ啖呵切っちまったらな......」
格納庫には、ニーナのパイと飾り付けが、寂しく残されている。




