第五十一話「返し技の先にあるもの」
雷牙号の医務室で、ガランは腫れ上がった頬に湿布を貼りながら、深いため息をついた。鏡に映る自分の顔を見て、苦笑いが漏れる。
「全く、とんでもない怪力だな......」
傍らでは、バーボンの酔いから覚めたニーナが、気まずそうに座っていた。船員たちも周りに集まり、先ほどの勝負の話で持ちきりだ。
「なあ船長、さっきのあれ、一体何だったんだ?」トムが身を乗り出した。「俺たちには何が起きたか全然分からなかったぞ」
ガランは湿布を押さえながら、ゆっくりと説明を始めた。
「今の剣術ってのは、ほとんどが競技に最適化されちまってるんだ。攻める側と守る側で、攻守交代がはっきり分かれてる。だから『反撃』って概念が消えちまったんだろうな」
「反撃?」モニカが首を傾げた。
「そう。防御と攻撃を同時にやる技術だ。いわゆる不意打ちに等しいもので、知らない奴が受けたら一発で終わる。競技の上では、しっかり受け止めた方が点数になるんだろうけどな」
ガランは立ち上がり、棒切れを手に取った。
「実戦で戦うなら、守ってばかりじゃいつかやられる。だから絶対に反撃が必要ってのが、昔の剣術の基本的な考え方だった」
彼はゆっくりと棒を振りながら続けた。
「七つの斬撃に対して、必ず返し技が存在する。これを知らなければ、本当の勝負にはならないだろうな」
ニーナは目を輝かせた。軍の形式的な訓練より、はるかに実戦的で理にかなっている。
「あの......船長」ニーナは思い切って口を開いた。「軍の訓練なんかサボって、船長に習った方が絶対いいんじゃないですか?」
ガランの顔が急に渋くなった。彼は腕を組み、しばらく黙り込んだ。
脳裏に蘇るのは、幼い頃の記憶だった。父親の容赦ない稽古。頭や腕を何度も叩かれ、時には手の骨を折ったこともあった。本物の剣術を教えるということは、そういうことだ。
「いや......やっぱり軍の教官に習った方がいいんじゃないかな」
その言葉に、船員たちが一斉に非難の声を上げた。
「なんだよ船長! 普段は軍人なんてダメダメって言ってるくせに!」
「こんな時だけ調子のいいこと言うなよ!」
モニカが腰に手を当てて詰め寄った。
「このままニーナを送り出したら、あの化け物に負けちゃうかもしれないんですよ? それでもいいんですか?」
ガランは頭を掻いた。確かに、何の準備もなく送り出して、もし何かあったら......目覚めが悪いどころの話じゃない。
「......分かった、分かったよ」
彼は観念したように両手を上げた。
「ただし、本気でやるぞ。覚悟はいいな?」
ニーナは力強く頷いた。
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二日後。
帝国軍の訓練場に、異様な姿の少女が現れた。
腕や顔に無数の痣を作り、目を血走らせたニーナだった。ブレイドの隊員たちが心配そうに駆け寄る。
「おい、ニーナ! どうしたんだその傷!」
「大丈夫か? 誰にやられた?」
ニーナは引きつった笑みを浮かべた。
「あ、いや......階段から転んじゃって。大丈夫です、心配いりません」
レイが疑わしそうな目で見つめたが、それ以上は追及しなかった。
「全員、整列! 訓練を開始する!」
ディアス小隊長の号令で、剣術訓練が始まった。今日は実戦形式の組み手だ。
最初の相手はマルコ。彼が上段から打ち込んできた瞬間、ニーナの体が自然に動いた。
棒を斜めに傾け、相手の攻撃を受け流す。そして同じ動作の中で、手首を返して反撃。マルコの脇腹に棒が当たる。
「なっ......!」
マルコは驚愕の表情で後ずさった。今のは一体何だ? 打ち込んだと思ったら、いつの間にか攻撃されていた。
次の相手も、その次の相手も、同じような結果に終わった。受けと反撃が一体となった動きに、誰も対応できない。
「こいつ......何か習ってきたな」
ディアスが鋭い目でニーナを観察していた。明らかに軍の教本にはない動きだ。しかも、かなり実戦的な技術。
(俺なら何とか対応できるか......? いや、下手したら......)
小隊長としての面子もある。新人に負けるわけにはいかない。しかし、あの動きは予測が難しい。
「ふーん、なかなか面白いことやってるじゃないか」
突然、のんびりとした声が響いた。振り返ると、そこにはメルベル・イシュタルが立っていた。
「大元帥!」
隊員たちが慌てて敬礼する。
「いやいや、そう固くなるな。たまたま近くに来たから、部下の様子を見に来ただけだ」
メルベルは軽い調子で手を振った。しかし、その目は鋭くニーナの動きを追っていた。
(ほう......競技化される前の剣技か。鉄嵐流と同じ動きだな)
まだぎこちないが、他の隊員を圧倒している。このまま調子に乗られても困るだろう。
(小隊長の面子も立たないだろうしな。ここは俺が少し、プライドをへし折ってやるか)
メルベルは訓練用の木刀を手に取り、悠然と前に出た。
「よし、ニーナ。俺が相手になってやろう」
ニーナの顔が強張った。帝国最強の男が相手? しかし、ここで逃げるわけにはいかない。
船長との特訓を思い出しながら、素早く踏み込んだ。狙いは胴。相手が受けに来たら、そのまま返し技で──
カン!
木刀が触れ合った瞬間、ニーナは凍りついた。
メルベルの木刀は、彼女の攻撃を受け流しながら、さらにその返し技まで受け流していた。そして、その動きの延長線上で、ニーナの肩に木刀が振り下ろされる。
返し技の、そのまた返し技。
初めて経験する次元の違いに、ニーナは防御に転じるしかなかった。しかし、一度守りに入ってしまえば、もう勝ち目はない。
バシッ! バシッ! バシッ!
容赦ない打撃が、腕に、脚に、胴に降り注ぐ。ニーナは必死に防ごうとしたが、全く間に合わない。
最後の一撃が横腹に入り、ニーナは地面に崩れ落ちた。呼吸ができない。全身が痛みで悲鳴を上げている。
それでも、震える手で木刀を掴み、立ち上がろうとした。
(そうだ......あそこはもっと腰を落として......手首の返しをもっと早く......)
頭の中で動きを修正しながら、何とか立ち上がる。
「まだやるか?」メルベルが面白そうに聞いた。
ニーナは無言で構えを取った。
二度目の打ち合いは、少しだけ長く続いた。しかし結果は同じ。メルベルの木刀が、今度は太ももを打った。
「ぐっ......!」
ニーナは膝をついた。もう立ち上がれない。
メルベルは木刀を肩に担ぎ、集まった隊員たちを見回した。
「諸君、実戦では木刀じゃない。切れる刃物での戦いだ。一撃でも食らえば、それで終わりだ。しっかりと訓練しろ」
そう言い残して、メルベルは訓練場を去っていった。
地面に倒れ伏したニーナの顔は、誰にも見えないように下を向いていた。その表情は、悔しさと屈辱で歪んでいた。
「いつか......絶対に......」
小さく震える声で呟く。
「いつか絶対に、あいつを倒してやる......!」
その顔を偶然見てしまったレイは、背筋に冷たいものが走った。
(やべぇ......こいつ、本気だ)
普段の勝気な少女とは違う、何か恐ろしいものを見た気がした。レイは慌てて視線を逸らし、何も見なかったことにした。
セラフィナが近づいてきて、倒れたニーナに手を差し伸べた。
「立てる? 医務室に行きましょう」
意外にも優しい声だった。ニーナは驚いて顔を上げる。
「......ありがとう」
二人が医務室に向かう後ろ姿を見ながら、ディアスは深いため息をついた。
「あれが本物の剣術か......俺たちが習ってきたものは、一体何だったんだろうな」
訓練場に残された隊員たちも、同じことを考えていた。




