第三十七話「女帝の趣味部屋」
隙間から流れ出る生ぬるい空気に、誰もが顔をしかめた。
「なんだ、この匂い......」
レイが鼻を押さえる。カビと古い紙、そして微かに甘ったるい何かが混じった独特の臭気だった。
ディアスを先頭に、一行は慎重に内部へと足を踏み入れる。
「電気は生きてるみたいだな」
天井の照明が、センサーに反応して次々と点灯していく。薄暗かった空間が、柔らかな光に照らし出された。
そこは、誰もが想像していた「女帝の隠れ家」とは、あまりにもかけ離れた光景だった。
「......これは」
セラフィナが絶句する。
正面の壁一面に、複雑な配線で繋がれた機器が並んでいる。近代的なタッチパネル、点滅するインジケーター、低く唸る冷却ファン。その手前のテーブルには──
「お、これ!」
マルコが歓声を上げて、テーブルの上の漫画本を手に取った。
「『鋼の騎士団』第十五巻! 俺も集めてたんだよ、これ!」
表紙は色褪せ、端が少し破れている。隣には開封済みのスナック菓子の袋。中身はとっくに湿気って、原型を留めていない。
「女帝様も......漫画読んでたのか」
エリスが信じられないという顔で呟く。
ニーナは機材の方へ歩み寄った。見覚えのある形状の装置が、部屋の隅に置かれている。
「これ、法石の精製機だ」
軍の整備班でも見たことがある。ただし、あちらは工場の一角を占領するような巨大な代物だったが。
「こんな小さいサイズで?」
覗き込むと、装置の中に極小の法石が数個、淡い光を放っていた。純度は恐ろしく高そうだ。これ一つで、一般兵の年収の何倍になるだろう。
「すげえ......」
レイが口笛を吹く。
「これ全部持って帰ったら、俺たち一生遊んで暮らせるんじゃねえか?」
「馬鹿言わないの」
セラフィナが睨みつけるが、彼女の視線も法石から離れない。
ディアスはパネルの前に立ち、慎重に画面をタッチした。
「研究日誌......実験データ......なんだこれは、プログラムのメモ?」
画面には、アジョラ9世の几帳面な文字が並んでいる。
『塩化反応の制御について、やはり触媒の配合比が──』
『今日も失敗。でも諦めない。必ず完成させる──』
『疲れた。少し休憩。買っておいたお菓子でも──』
『漫画をかってきた、超面白い、資金援助して続きを書かせようかな』
生々しい日常が、そこにあった。
「こりゃすごい」
ディアスが興奮気味に呟く。
「これだけの研究資料があれば、帝国の技術は飛躍的に──」
ふと、ニーナが口を開いた。
「あの、隊長」
「ん?」
「この扉、どうやって閉めるんでしょう?」
全員が振り返る。確かに、入ってきた扉は開いたままだ。
「さあ......」
レイが首を捻る。
「閉めなくてもいいんじゃねえか?」
「馬鹿、また誰かに入られたらどうする」
マルコが反論する。
ディアスは少し考えて、決断を下した。
「とりあえず、めぼしいものを持ち出そう。研究資料、法石、使えそうな機材。全部だ」
「了解」
隊員たちが動き始める。それぞれが機材や資料を抱え、外へと運び出していく。
その間、ディアスはこっそりと通信機を取り出した。イシュタル家への報告。セラフィナも、少し離れた場所でベオルブ家に連絡を入れている。レイは、さりげなくニーナの動きを観察しながら、メモを取っていた。
「よし、全員出たな」
最後にディアスが外に出ると、不思議なことが起きた。
扉が、音もなくスライドして、元の平らな壁に戻ったのだ。
「おお......」
マルコが感嘆の声を上げる。
「自動なのか」
ディアスが試しに、さっきニーナが押した辺りをぐいと押してみる。
何も起こらない。
「うーん?」
もう一度押す。やはり反応なし。
「なんでだ?」
セラフィナも試すが、扉はぴくりとも動かない。
「まあいい」
ディアスが諦めたように手を払う。
「とりあえず、この荷物を船に運ぼう。それから──」
彼はちらりと隊員たちを見回した。
「本部への報告だ。大発見だからな」
全員が頷く。それぞれの思惑を胸に秘めながら。
ニーナは運び出された機材の山を見つめていた。アジョラ9世。伝説的な女帝。その人も、漫画を読み、お菓子を食べ、研究に疲れたら休憩していた。
なんだか、急に親近感が湧いてきた。
「おい、新人! ぼーっとしてないで運べ!」
セラフィナの叱責が飛ぶ。
「はい、はい」
ニーナは苦笑いを浮かべて、重い機材を担ぎ上げた。




