第十九話「爆発」
モニカとの会話で少し気持ちが持ち直したニーナだったが、船長室の近くでラムザの姿を見つけて、反射的に物陰に身を隠した。
今はまだ、あの雲の上の少年と顔を合わせたくなかった。マナー講座のことを思い出すだけで、胃が重くなる。
「退屈してるだろう?」
ガランの気さくな声が聞こえてきた。
「船旅は長いからな。特に迂回ルートときてる」
「いえ、そんなことは......」
ラムザが丁寧に答える。
「いやいや、遠慮はいらない。お客に退屈させると、値切りされそうだからな」
ガランは冗談めかして笑った。
「ちょっと待ってろ」
彼は部屋の中に入り、すぐに何かを手に持って出てきた。
それは美しい装丁のハードカバーだった。表紙には繊細な絵が描かれ、金の箔押しが施されている。革の匂いが漂ってきそうな、上質な本だ。
「これでも読んでくれ。古典だが、退屈凌ぎにはなるだろう」
『あの蛮族のような人が?』
ニーナは目を見張った。船員といえば、酒と博打と女話にしか興味のない連中だと思い込んでいた。教養や文学とは無縁の、粗野な存在として。
なのに、この男は古典文学を所蔵している。しかも、客に貸し出すほど親しんでいる。
「ありがとうございます」
ラムザはその本を受け取ると、表紙を見て嬉しそうに笑顔を見せた。
「これは......良い版ですね」
「おっ、分かるか?」
ガランの目が輝いた。
「さすがはいいとこの坊ちゃんだ。話が合いそうだな」
二人の間に、知的な会話への期待が漂っているのが見て取れる。教養人同士の、静かな共鳴。
ニーナの胸に、鋭い痛みが走った。
ラムザが部屋に戻った後、ガランは満足げな表情で箱を持ち、船内の各部屋を回り始めた。鼻歌まで歌っている。機嫌が良いのだ。
ニーナは先ほどモニカとの会話で回復した自尊心が、また音を立てて崩れるのを感じた。
彼女はそっとガランの後をつけ、その作業を見つめた。
ガランは慣れた手つきでリボンや飾りを作り、壁に取り付けていく。色彩の組み合わせ方、結び目の作り方、全てに温かみがある。まるで母親が子供のために準備するような、愛情のこもった手仕事だった。
なぜあんな男が、自分の知らない世界を知り尽くしているのか。
ニーナの胸に、どす黒いものが渦巻いた。嫉妬、憧れ、憎しみ。全てが混じり合った、制御不能の感情。
自分にとって祭りとは何だったか。
孤児院で配られた、割れて欠けた安物の飴玉。取り合いになって、小さな子供たちが泣いていた。
軍隊での年に一度の特別食事。いつもより少しだけ美味しい肉と、司令官の長すぎる演説。居眠りして怒られた同期もいた。
家庭の温もり、手作りの飾り、家族で囲む食卓——そんなものは、絵本の中でしか見たことがなかった。読み聞かせてくれる大人もいなかったが。
『なんで私には......』
涙がにじんできた。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。
「ん?」
ガランが振り返った。ニーナの視線に気づいたのだ。その瞬間、彼女は慌てて涙を拭った。
「おや、お嬢さん。どうだい?ちょっとはマシになったかい?」
親切そうな笑顔だった。客への気遣いと、純粋な好意が混じった表情。
「ええ......まあ」
ニーナは作り笑いを浮かべて答えた。演技の設定上、彼女は良家のお嬢様でなければならない。
「まあ、いいところの家の飾りなんて知らないが、たまにはいいだろう?」
ガランは謙遜するように肩をすくめた。
「庶民の手作りだが、楽しんでくれ。夕食も腕を振るって用意したんだ」
彼の口調には、誇らしさと不安が混じっていた。客に喜んでもらいたいという、純粋な気持ち。
「ほら、せっかくだから、いいとこの家の飾り付けを見せてくれよ」
彼は色鮮やかな布を差し出してきた。期待に満ちた眼差しで。
「きっと俺たちより上手だろう?教えてくれよ」
ニーナはその布をどうすればいいのか分からなかった。手に取ることさえ躊躇する。触れたことのない、美しい世界の象徴のようで。
「家のものにやらせていたから......」
慌てて言い訳を探す。声が震えそうになるのを必死に抑えて。
「よく分からないの」
「そうか?」
ガランは意外そうに首をかしげた。
「でも、いいとこの家のお嬢さんなら、母親から教わったりしないのか?」
その無邪気な質問が、ニーナの心をえぐった。
母親。
そんな存在は、彼女の人生には存在しなかった。
「ちゃんと覚えておかないと、後で困るぞ」
ガランは親切に忠告した。
「まあ、召使にやらせればいいか。お金持ちは楽でいいな」
彼は苦笑いした。羨ましそうでもあり、理解できないという困惑も混じった複雑な表情。
「庶民の飾り付けには興味ないかもしれないが、弟の面倒でも、しっかり見てやってくれな」
そして作業に戻ろうとした。
その瞬間、ニーナの中で何かが切れた。
蓄積された屈辱、嫉妬、絶望。全てが一気に溢れ出した。
「ふざけるんじゃないわよ」
声色が一変した。冷たく、鋭く、憎悪に満ちて。
ガランが驚いて振り返る。手にしていた飾りを落としそうになった。
「そんなお祭りの飾りなんて、見たこともないわ」
ニーナの声が震えていた。怒りと悲しみで。
「私は孤児院の、親もいない子供よ」
その言葉が空気を凍らせた。
ガランは言葉を失った。口をぱくぱくと開閉させている。
「あなたみたいな......」
堰を切ったように言葉が溢れ出す。止められない激流のように。
「いいご家庭に生まれて、温かい家族がいて、こんな道楽のごっこ遊びみたいな商売してる人に、何が分かるっていうの」
「おい、落ち着け——」
「空の民とか格好つけて、責任から逃れてきただけの甘ちゃんでしょう」
ニーナの目に涙が浮かんでいた。それに気づいて、さらに自分が惨めになった。
「私はこの仕事で認められて、いつかは召使を雇うくらい金持ちになってやるわ」
「君、それは——」
「黙って!」
ガランは完全に呆然としていた。善意を向けた相手から、突然の憎悪を向けられて、理解が追いつかない。
ハッと我に返ったニーナは、自分が何をしたかに気づいた。
正体を。
秘密を。
全てを台無しにした。
慌てて部屋を飛び出した。
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客室に戻ると、ラムザが窓辺に立っていた。
振り返ったその表情は、氷のように冷たかった。
「一体、どういうつもりだ」
低い声だった。怒りを抑えた、危険な声色。王族が家臣の裏切りを知った時の、そんな声。
「さっきの会話、全て聞いていたぞ」
ニーナは青ざめた。血の気が引くのを感じる。
「ラムザ殿下......」
「説明してもらおう」
ラムザの瞳に、失望と怒りが混じっていた。
「なぜ正体を明かした。なぜ感情に任せて、全てを台無しにした」
部屋の空気が重い。嵐の前の静寂のような、圧迫感。
「私は......私は......」
言葉が出てこない。言い訳を探すが、何も見つからない。




