第百二十話「偽りの宣言」
病室の窓から差し込む朝日が、白い壁に斜めの影を作っていた。ガランは包帯だらけの体を起こし、ニーナと向き合っていた。
「なあ、ニーナ。よく聞いてくれ」
「...聞きたくない」
ニーナは俯いて、小さく首を振る。
「今の状態をなんとかしないと、俺が殺される。それだけじゃない、実家の家族も危ない」
「でも...」
「世間に向けて、俺とお前の関係を否定してくれ」
ニーナの顔が蒼白になった。
「何それ...どういう意味?」
「俺はお前のボディガード。単なる部下。赤の他人。そう発表するんだ」
「絶対嫌!」
ニーナは立ち上がり、ガランの胸ぐらを掴む。
「なんで?なんでそんなこと言うの?」
「お前も分かってるだろ」
ガランは苦しそうに言う。
「このままじゃ、また襲撃される」
「守ればいい!メルベルに言って軍を...」
「それで俺の両親は?妹たちは?」
ニーナの手が震えた。
「リリーはまだ二十歳だ。結婚もまだなのに、俺のせいで狙われるかもしれない」
「...」
「母さんからの手紙、見ただろ?心配してる。父さんだって、表には出さないが不安なはずだ」
ニーナは唇を噛みしめた。血が滲むほど強く。
「一応な」
ガランは優しく言う。
「俺にとって、お前は間違いなく妻だ。聖火の祠の前で誓ったんだから」
「じゃあ...」
「神の前では妻だ。でも法的には、世間的には、まだ言い訳が立つ」
「言い訳...」
ニーナの声が震える。
「物理的に距離を取らないと、本当に大変なことになる」
長い沈黙が流れた。ニーナは何度も口を開きかけ、そして閉じた。脅してやろうか、泣いてみようか、様々な考えが頭を巡る。でも、ガランの家族の顔が浮かんでしまう。優しいマルタ、朗らかなロベルト、明るいリリー。
「...分かった」
消え入りそうな声だった。
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皇宮の大広間。記者会見の準備が整っていた。カメラが並び、記者たちがざわめいている。
ニーナは演壇に立った。純白のドレスは威厳に満ち、その表情は冷たく無表情だった。
「本日は、最近の噂について明確にしたいことがあります」
記者たちが身を乗り出す。
「雷牙号船長ガラン・ベルとの関係について、様々な憶測が飛び交っているようですが」
ニーナは一呼吸置いた。心臓が千切れそうだった。
「彼は私の護衛の一人に過ぎません。それ以上でも、それ以下でもありません」
会場がざわめく。
「では、新婚旅行という報道は?」
記者の質問に、ニーナは冷たく答える。
「単なる視察です。護衛として同行しただけです」
「しかし、目撃証言では...」
「憶測で記事を書くのはお止めください」
声に怒気が滲む。本当は記者たちを全員消し飛ばしたかった。
「ガラン・ベルは一市民です。今後、根拠のない報道により彼や彼の家族に危害が及ぶようなことがあれば、帝国として厳正に対処します」
そう言い切って、ニーナは会見を終えた。質問の嵐を背に、足早に退場する。
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控室に戻ると、ニーナは机に突っ伏した。
「最悪...」
呟きが漏れる。
「なんで...なんで自分の好きな人を、違うって言わなきゃいけないの...」
セラフィナが心配そうに近づく。
「ニーナ様...」
「我慢して、頑張って、やっと褒められたと思ったら...」
涙が零れる。
「実質的な別れ話じゃない...」
全てが、何もかもが、どうでもよくなっていた。
(あのまま...船に転がり込んで、船員ニーナ・クロウとして...)
誰の目にも止まらなければ、今頃はあのワイン農園で、ガランと穏やかな日々を送っていたはずだ。朝は葡萄畑を見回り、昼は家族と食卓を囲み、夜は...
「もう、誰が味方で誰が敵なのか分からない」
ニーナは顔を上げた。その目は虚ろだった。
「いや、違う。全員敵よ」
「ニーナ様?」
「味方のふりをした最悪の敵。それがブレイドの中にウヨウヨいる」
セラフィナは何も言えなかった。マルティウスのことを思い出す。確かに、信じていた仲間が敵だったのだ。
「善意で、私の世界を破壊しようとしてる」
ニーナは立ち上がった。鏡に映る自分を見る。女帝の衣装を着た、小さな女。
「この顔が、この声が、私のものじゃないみたい」
さっきの会見で、思ってもいないことを言った。愛している人を、関係ないと言った。その瞬間、自分の口が自分のものではないような気がした。
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「冷静に考えれば...」
ニーナは鏡の中の自分と目を合わせる。
「ガランである必要はないのよね。世界には男がたくさんいる。ガランよりいい人も、きっといる」
でも、と心が叫ぶ。
「なぜか、絶対に譲れない」
会場での襲撃。真っ先に危険を察知したのはガランだった。犯人を撃ったのもガラン。自分を守ったのもガラン。
「ブレイドなんて、心底信用できない」
世界で安心できる場所。それは今、あの雷牙号の狭い船室にしかない。モニカがいて、トムがいて、ジャックがいて。そしてガランがいる、あの空間だけ。
「遠くに行きたい…」
ニーナは窓の外を見た。月が見える。はるか遠くにありながらみんなが知っている場所。
「あの月まで、誰も知らないところに行きたい…」
小さく、自嘲的に笑う。
「女帝なんてクソよ」
吐き捨てるように言う。
「この血のせいで襲われて、冷たい孤児院で育って、母の愛も知らないで」
拳を握りしめる。
「挙句の果てに、好きな人を好きとも言えない」
これは呪いだ、とニーナは思った。ボム家の血という呪い。カーカラシカという名の呪い。
「こんな家に生まれたくなんてなかった」
セラフィナは黙って聞いていた。何も言えなかった。この少女の苦しみは、自分には想像もつかないものだったから。
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ニーナは突然顔を上げた。その目に、何か決意のようなものが宿っている。
「待って...方法があるはずよ」
「ニーナ様?」
「このままじゃ、私の未来が失われる」
ニーナは立ち上がり、部屋を歩き始めた。
「どうすれば...どうすれば一般人になれる?」
セラフィナは驚いて目を見開く。
「一般人に?」
「そう。女帝を辞めて、普通の女になって、ガランとあの農園で...」
ニーナの目が輝き始める。
「ラムザがいる。あの子なら...いや、でも男子だから無理か」
「ニーナ様、それは...」
「四大家から次の女帝を選べばいい。私が退位すれば」
「でも、そんな前例は...」
「前例なんてどうでもいい!」
ニーナは机を叩く。
「方法はあるはず。法律を変えるか、抜け道を見つけるか...」
頭が高速で回転し始める。孤児院で生き延びるために培った知恵が、今度は自由を掴むために動き出す。
「メルベルなら...いや、あいつは従順すぎる。ギルガメシュは...使えるかもしれない」
様々な可能性を検討し始めるニーナを、セラフィナは複雑な表情で見つめていた。




