第百十三話「女帝への忠告」
地下施設での三日目、研究資料の整理が続いていた。膨大な量の書類、実験データ、設計図。それらを一つ一つ確認し、分類していく作業は、誰もが疲労困憊していた。特に若い兵士たちは、慣れない頭脳労働に四苦八苦していた。
午後の薄暗い実験室で、事件は起きた。
「これを棚に戻しておいて」
ニーナが若い兵士に書類の束を渡した。兵士は緊張した面持ちで受け取ったが、疲労のせいか手が滑った。書類が床に散らばり、中には水たまりに落ちたものもあった。実験台から零れた冷却水だった。
「あっ、申し訳ありません!」
兵士は慌てて書類を拾い始めた。まだ二十歳にもならない若者だった。顔を真っ赤にして、必死に濡れた書類を拭いている。
ニーナの表情が凍りついた。赤い瞳が冷たく光る。
「何してるの?」
声は静かだったが、その奥に潜む怒りは誰の目にも明らかだった。
「す、すみません!すぐに乾かします!」
若い兵士は震え声で謝罪を続ける。周囲の者たちも緊張で固まっていた。
次の瞬間、ニーナの手が動いた。法力の波動が空気を震わせ、兵士は壁まで吹き飛ばされた。背中から激しく壁に叩きつけられ、苦痛の呻き声を上げる。
「無能」
ニーナは冷たく言い放った。
「こんな簡単なこともできないなんて。降格よ。二等兵からやり直しなさい」
兵士は壁にもたれながら、涙を流していた。痛みと屈辱で顔が歪んでいる。
「も、申し訳ございません...どうか...」
「言い訳は聞きたくない」
ニーナは踵を返した。
「消えなさい」
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その一部始終を、ガランは扉の外から見ていた。今まで、ニーナの横暴はそれなりに見てきた。でも今回のは、明らかに一線を超えていた。ここで見て見ぬ振りは、ニーナの旦那を名乗る者として絶対にできない。直感的にそう感じた。
内心ではビビっている。正直、ニーナを怒らせたら何をされるか分からない。でも、腹を括った。
ガランは決意を固めて、実験室に入った。
「ニーナ」
振り返った彼女の顔は、まだ怒りで紅潮していた。
「何?今忙しいの」
「なんださっきのは」
ガランの声は低く、怒りを含んでいた。
「俺に恥かかせやがって」
ニーナは目を見開いた。
「恥?何の話?」
ガランは倒れている兵士に近づき、手を差し伸べた。
「大丈夫か?」
「は、はい...」
兵士は驚いた顔でガランを見上げた。まさか女帝の夫が自分を助け起こすとは思わなかったのだろう。
「医務室に行け。レイ、連れて行ってやってくれ」
「了解です」
レイが素早く兵士を支えた。
ニーナの眉が跳ね上がった。
「何のつもり?私の命令を覆すの?」
「よく言えたもんだ」
ガランは真っ直ぐニーナを見た。
「お前はもっと弱かったのに。いろんな奴の世話になったのをもう忘れやがって」
その言葉に、ニーナは息を呑んだ。孤児院での日々、軍での新兵時代、船での生活。確かに、自分は多くの人に助けられてきた。
「それは...」
「ちょっと頭冷やせ」
ガランの声は厳しかった。
「のぼせてんじゃねえぞ」
ニーナは顔を真っ赤にした。怒りと恥ずかしさが入り混じった複雑な感情。
「私は女帝よ!農家のあなたに説教される筋合いなんて...!」
言いかけて、ハッと口を閉じた。言ってはいけないことを言いそうになった。目を瞑って俯く。
ガランは額に青筋を立てた。
「あぁ?農家の倅だから何だ?言ってみろ」
ニーナは自分がかなりまずい精神状態だとようやく自覚した。イライラして、力に酔って、周りが見えなくなっていた。
「偉いからって何してもいいわけじゃねえぞ」
ガランは続けた。その表情は怒りを含みながらも、どこか心配そうだった。
「俺はお前の旦那として言ってるんだ。このままじゃダメだ」
「俺に恥かかすんじゃねえ」
ガランは睨んだ。
「こんなこと二度と言わすな」
ニーナは悔しさと恥ずかしさで顔を真っ赤にした。
「こ、この!」
感情が爆発して、わずかに放電が起きる。紫電がガランの頬を掠め、血が滲んだ。
しかし、ガランは身じろぎ一つしなかった。ただ真っ直ぐにニーナを見つめ続ける。
ニーナは自分が傷つけてしまったことに気づき、後悔の色が顔に浮かんだ。そしてガランの揺るがない視線に、完全に怯んだ。
振り返って、倒れていた兵士の方を見る。
「...悪かったわね」
小さな声でそう言って、そそくさと実験室を立ち去った。
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セラフィナが慌てて近づいてきた。
「あ、あのガラン様!」
涙目になりながら。
「手当いたします!」
ガランは手を振り払った。苦い顔をして。
「いい。さっさと仕事終わらせてくれよ。気分が悪い」
そう言って、その場を立ち去る。
残された隊員と船員たちは、その一部始終を見て興奮していた。
「マジ痺れるぅ...」
ジャックが呟く。
「男前すぎて、男なのに惚れそう...」
トムも感嘆の声を上げる。
「船長、かっけぇ...」
ディアスが目を輝かせている。
「女帝様に真正面から物を言えるなんて...」
「しかも怯まなかった」
レイも興奮気味だ。
「あれ目の前にして、ピクリともしないとか...」
「瞬きひとつしないとか肝座りすぎ...」
トムが感動の視線を向けている。
セラフィナは複雑な表情でガランの去った方向を見つめていた。
「旦那様...本当にすごい方」
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その頃、ニーナは一人で廊下を歩いていた。顔は赤く、拳を握りしめている。
「なによ...偉そうに...」
でも、心の奥では分かっていた。ガランの言うことが正しいと。自分が調子に乗っていたことも。
夕方、重い雰囲気の中で、ニーナは軍艦に移ることになった。
「態度が改まるまで、別行動だ」
ガランの言葉は有無を言わせなかった。
「軍の船に乗れ。頭を冷やしてこい」
「...分かったわよ」
ニーナは不機嫌な顔で軍艦に向かった。振り返ることもなく、プライドを保つのに必死だった。
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二つの船が離れていく。雷牙号の甲板で、モニカが心配そうに呟いた。
「大丈夫かな...」
「必要なことだ」
ガランは頬の傷を押さえながら言った。
「あいつも分かってるはずだ」
夜、通信機が鳴った。軍艦のレイからだった。
「船長、女帝様が...」
「どうした?」
「部屋で暴れてます。でも、なんか泣いてるような...」
ガランは深いため息をついた。
「放っておけ。自分で考える時間が必要だ」
「了解です」
遠くで軍艦の明かりが見える。ニーナは今、何を考えているのだろうか。怒っているのか、反省しているのか、それとも...
「船長」
アティが近づいてきた。
「頬の傷、本当に大丈夫ですか?」
「痛えに決まってんだろ」
ガランは涙目になりながら言った。
「でかい絆創膏取ってくれ...」
ニーナが意図せずに放電したものとわかっていたが、一つ間違えばもう少し大怪我をしてもおかしくなかった。どっと冷や汗が出る。




