第百十二話「地下の家」
山岳地帯の朝霧が晴れていく中、雷牙号は目的地上空でホバリングしていた。眼下には岩だらけの荒涼とした大地が広がり、その中央に不自然なほど平らな場所がある。アジョラの隠れ家への入り口だ。
「降下準備完了」
トムが報告する。
「よし、着陸」
ガランが指示を出した。
船が地面に着くと同時に、護衛艦から法力使いの兵士たちがわらわらと降りてきた。黒い制服に身を包んだ精鋭たちが、素早く周囲に展開していく。その数、実に五十名以上。これでもかという警戒態勢だった。
「こりゃすごいな」
ジャックが口笛を吹く。
「軍の本気ってやつか」
「当然よ」
セラフィナが指揮を執りながら答える。
「ここには帝国の最重要機密があるかもしれないんだから」
ブレイドたちは慣れた動きで兵士たちを配置していく。レイが通信機を手に、各班との連絡を取る。ディアスは後方支援として、機材の設置を指示していた。
「第一班、東側クリア」
「第二班、西側異常なし」
「第三班、北側確保完了」
次々と報告が入ってくる。仮にテロ集団の基地があったとしても、この戦力なら何の問題もなく制圧できるだろう。実際、これは過剰なまでの警備だった。
十五分後、レイが振り返った。
「確保しました。敵影なし。安全です」
ニーナは優雅に立ち上がった。白い軍服が朝日に輝く。
「じゃあ行きましょうか」
当然のようにガランに向かって手を差し伸べる。
ガランは内心で思った。俺はいらないよな、絶対。護衛なら腐るほどいるし、俺なんか足手まといだ。でも、ニーナの期待に満ちた眼差しを見ると、断れない。仕方なく手を取って立ち上がる。
「船員も来ていいわよ」
ニーナが振り返って言った。
「物見遊山も悪くないでしょう?」
「マジで!?」
ジャックが飛び上がる。
「やった!」
「でも、触っちゃダメよ」
ニーナが釘を刺す。
「見るだけ」
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アティとモニカは素早くニーナの荷物を持った。お弁当箱、着替えの入ったバッグ、水筒、日傘まで。まるで遠足に行く小学生の世話を焼く母親のようだった。
「私が持ちます!」
「いえ、私が!」
「二人で分けなさい」
ニーナが命じる。
一見すると仲良し三人組のようにも見える。でも、よく見ればアティとモニカの顔は引きつっていて、ニーナの一挙一動に怯えている。どうにも悲惨な光景だった。
「かわいそうに...」
トムが小声で呟く。
「完全に下僕だな」
ジャックも同情的だ。
「でも、生きてるだけマシかも」
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隠れ家の入り口は、巨大な岩の裂け目にあった。一見すると自然の洞窟のようだが、よく見ると人工的に整えられている。その奥に、重厚な金属の扉があった。
「これがバンカーね」
ニーナが扉の前に立つ。
複雑な紋様が刻まれた扉には、鍵穴も取っ手もない。ただ中央に、手のひらを当てるような窪みがあるだけだ。
ニーナが手を当てると、扉が青白く光り始めた。紋様が順番に輝き、重い音を立てて扉が開いていく。
「すげぇ...」
船員たちが息を呑む。
中に入ると、空気が変わった。外の乾いた山の空気とは違う、どこか湿った、でも清潔な空気。照明が自動的に点灯し、長い廊下が現れる。
「ここが一番大きなバンカーらしいわ」
ニーナが説明しながら歩く。
「母が最後に作ったものだって」
廊下を進むと、急に視界が開けた。巨大な地下空間が広がっている。天井は優に十メートルはあり、広さは体育館ほどもある。そして、その中央に...
「家?」
ガランが目を疑った。
地下の中に、木造の家が建っていた。二階建ての、どこにでもありそうな普通の家。煙突まである。周りは芝生のような緑の絨毯が敷かれ、小さな庭まで作られている。
「シュールすぎる...」
モニカが呟く。
「なんで地下に家が...」
アティも困惑している。
家の横には、近代的な実験棟のような建物が併設されていた。ガラス張りの壁、金属のドア、明らかに研究施設だ。
「母の趣味よ」
ニーナが肩をすくめる。
「普通の家に憧れていたんだって。だから地下にも作ったの」
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ニーナは家の扉を開けて中に入った。
「じゃあ、あとはよろしく」
そう言って、リビングのソファにどかっと座り込む。靴を脱ぎ捨て、足を投げ出してくつろぎ始めた。
「ガラン、こっち来て」
隣をポンポンと叩く。
「いや、俺は...」
「いいから」
ガランが渋々隣に座ろうとした時、ふと思い直した。
「なあ、お前も行った方がいいぞ」
「え?」
ニーナが不満そうな顔をする。
「研究施設の調査だろ?お前が行かなきゃ意味ないじゃないか」
「でも、面倒くさい...」
「怠け癖はよくねえ」
ガランは真面目な顔で言った。
「仕事は仕事。ちゃんとやれ」
ブレイドたちは息を呑んだ。また女帝が暴れるのではないか。法力が炸裂して、ガランが吹き飛ばされるのではないか。みんなハラハラしながら見守る。
しかし、意外にもニーナは頬を膨らませただけだった。
「...分かったわよ」
文句を言いながらも、渋々立ち上がる。
「ガランのケチ。せっかく二人きりになれると思ったのに」
「後でゆっくりすればいいだろ」
「約束よ?」
「あぁ、約束だ」
ニーナは不満そうにしながらも、施設の方へ向かっていった。アティとモニカも慌ててついていく。
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その様子を見ていたセラフィナが、思わず呟いた。
「旦那様...」
レイも目を丸くしている。
「すげぇ。女帝を普通に叱れるなんて」
「都での横暴ぶりが嘘みたいだ」
ディアスが感心したように言う。
「やっぱり船長はすごいな。女帝様も、船長の前では普通の女の子なんだ」
名門出身のブレイドたちは、目を輝かせていた。
「もう家柄とかどうでもいいかも」
エリスが呟く。
「愛があれば身分差なんて」
マルコも頷く。
「いや、でも現実は...」
セラフィナが言いかけて、やめた。
今は、この奇跡のような関係を見守るだけでいい。そう思った。
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実験棟では、ニーナが扉を次々と開けていく。
「これは...塩化装置の設計図」
「こっちは法力増幅器の理論」
「あ、これは私の育児日記?」
最後の部屋で、ニーナは立ち止まった。そこには、小さなベビーベッドが置かれていた。埃を被っているが、かつてそこに赤ん坊がいたことは明らかだった。
「私の...」
ニーナの声が震える。十七年前、ここで母は自分を育てていたのだ。安全な地下で、誰にも見つからないように。でも結局、外の世界に出した途端、全てが狂ってしまった。
「ニーナ様」
セラフィナが声をかける。
「大丈夫ですか?」
「...大丈夫よ」
ニーナは振り返って笑った。
「さあ、調査を続けましょう」
でも、その笑顔は少し寂しそうだった。
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一方、家の中では、ガランが一人でくつろいでいた。普通の家。普通のソファ。普通の生活。こんな地下なのに、妙に落ち着く空間だった。
「船長」
ジャックが顔を出す。
「すげぇですね、ここ」
「あぁ」
「でも、なんか寂しい感じもしますね」
「そうだな」
ガランは天井を見上げた。アジョラは、ここで何を考えていたのだろう。娘と普通の生活を夢見ていたのだろうか。でも、それは叶わなかった。
「運命って残酷だな」
独り言のように呟く。
窓の外...いや、地下だから窓なんてない。でも、この家には偽物の窓があって、そこには美しい風景画が描かれていた。青い空、白い雲、緑の野原。全て、幻想の風景だった。
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ニーナが戻ってきた時、夕方になっていた。疲れ果てた顔で、ソファに倒れ込む。
「もう嫌。研究資料多すぎ」
「お疲れさん」
ガランが頭を撫でる。
「もっと撫でて」
「はいはい」




