第百十一話「新婚旅行の続き」
雷牙号の狭い廊下を歩いていると、いつもニーナの気配を感じる。振り返れば必ずそこにいて、にこにこと笑っている。まるで影のように、いや、もっと存在感のある何かのように、ガランの隣に寄り添っていた。朝の光が小窓から差し込む廊下で、彼女の金髪がきらきらと輝いている。
「ねえ、朝ごはん美味しかった?」
ニーナが腕に絡みついてくる。小さな手が、しかし逃げられない力でガランを捕らえている。
「あぁ、美味かったよ。特にあのスープ」
「そう?良かった。実はね、私が味付けしたの」
「お前が?」
「そうよ。マルタお母さんに教えてもらったレシピ」
ガランは複雑な表情を浮かべた。母親の名前を自然に出すニーナ。まるで本当の家族のように。
---
レイとセラフィナは、少し離れた場所でその様子を眺めていた。二人の表情は諦観に満ちている。朝のコーヒーを飲みながら、小声で会話を交わす。
「機嫌がいいなら、もうなんでもいいや」
レイが呟く。
「同感」
セラフィナも頷いた。
「生きてるだけで儲けものよ」
「おい、あそこ…」
「言わないで。見たくない」
時折、物陰でニーナがガランを壁に押し付けている光景を目撃することがある。小さな体で大男を壁ドンして、強引に唇を奪う。今朝も機関室の前で、ガランが逃げ場を失っている場面に遭遇した。
「ニーナ、人が見てる...」
「いいじゃない。私たち夫婦でしょ?」
「いや、でも...」
言いかけたガランの言葉を、ニーナが唇で塞ぐ。
通りかかったトムは、慌てて踵を返した。
「見なかった、俺は何も見なかった」
独り言を呟きながら、足早に立ち去っていく。
---
昼食の時間、食堂は賑やかだった。船員たちが集まり、それぞれの皿に盛られた料理を前に談笑している。ジャックがふと思い出したように、セラフィナに尋ねた。
「実際、世間にはどう説明するの?」
フォークを止めて、ジャックが続ける。
「確か何か法があったよね?皇族の血縁とか結婚の。四大家から選ばなきゃいけないとか、そういうの」
「あれは絶対に満たしてないよね。船長、ベオルブ家の農家の出だけど、本家じゃないし」
セラフィナは頭を抱えた。額に手を当てて、深いため息をつく。
「もう何も言わないで...考えたくない」
「でもさ、このままじゃ...」
「シッ!」
セラフィナが慌てて制止した理由は、すぐに分かった。後ろでニーナがガランに腕を絡めて、嬉しそうに何かを見せていたのだ。
「ほら、この写真!現像したのよ」
手には、新婚旅行の旅先で撮った写真の束。一枚一枚を愛おしそうに眺めながら、ガランに解説していく。
「これ、聖火の岬での写真。覚えてる?」
「覚えてるさ。お前が急に『撮って!』って言い出したやつだろ」
「そうそう!夕日がすごく綺麗だったから」
写真には、聖火の祠の前で寄り添う二人が写っていた。ガランの腕にしがみつくニーナ、照れくさそうに笑うガラン。背景には黄金色に染まる海。
「いい顔してるだろ、俺」
ガランが苦笑いを浮かべる。
「私の方が可愛いでしょ?」
「そりゃお前の方が可愛いさ」
「もう一回言って」
「...お前が一番可愛い」
「えへへ」
---
狭い船内では、どこでも人目がある。プライバシーなど存在しない。それでもニーナは気にせず、むしろ見せつけるように振る舞っていた。
「ほらセラフィナ、いいところでしょう?」
ニーナが写真を突きつける。満面の笑顔で、自慢の宝物を見せる子供のように。
「これなんか特にお気に入り。ガランがアイスクリーム買ってくれた時の」
写真には、大きなアイスクリームを頬張るニーナと、それを優しく見守るガランが写っていた。世間に出回れば確実に最新ニュースになる代物だ。『新女帝、庶民的デートを満喫』なんて見出しが容易に想像できる。
「わー、素敵ですね!本当にお似合いです!」
セラフィナはやけくそで笑顔を作った。頬が引きつっているのを自覚しながら。咎めたらまた鬼の顔をされて、法力三百以上から繰り出される怪力か放電をお見舞いされるのだ。
「でしょう?」
ニーナは満足そうに頷く。
「もっと見る?」
「いえ、その...お仕事が」
「つまらない人ね」
暴力は誰の前にも平等である。セラフィナはそのことがよく分かり始めていた。身分も立場も関係ない。ニーナの前では全員が等しく無力なのだ。
---
時折、ガランは現実的な話を持ち出す。船長室で二人きりになった時、彼は慎重に切り出した。
「なあ、実際どうするんだ?」
その瞬間、扉の向こうで聞き耳を立てていたブレイドたちに緊張が走る。地雷を踏むな、という無言の圧力。
「世間様の目ってもんがある。このままじゃ長続きしねえ」
「どういう意味?」
「俺たちの関係さ。皇族と農民の結婚なんて、歴史上あったか?」
ニーナは意外にもちょっと悲しそうな顔をした。肩を落として、椅子に座り込む。小さな声で話し始める。
「そ、それなんだけど...実は手を打ったの」
「手を打った?」
「農地は、ボム家っていうか、私がもらうことにしたの、あと、ちょいちょい法律的にあなたの戸籍もいじって…」
「は?」
ガランは振り返った。
「どういうことだ?」
「ベオルブ家から買って、私の私有地にしたの。あなたの実家の農園、全部。葡萄畑も、ワイン工場も、全部」
ガランは言葉を失った。椅子の肘掛けを握る手が震える。
「まさか、そんなことまで...いくらかかったんだ」
「まあまあ、土地は譲ってもらったからただで済んだし…」
ニーナはあっけらかんと答える。
「タダ!?お前、暴力で何もかも...」
「違う!」
ニーナが慌てて抗議する。
「これはちゃんとお願いしたの!イナンナおばさんに頭下げて、ちゃんと話し合って譲ってもらったの!」
「本当か?」
「本当よ!暴力なんて使ってない!...ちょっとだけ威圧はしたけど」
「ちょっと考えたんだけどさあ」
ニーナは膝を抱えて続ける。
「私が孤児になったのも、つまりセキュリティ不足でしょ?あちこちにそういう隠れ家的な土地があった方が、私も小さい頃襲われなくて済んだんじゃないかなって」
「それに」
彼女は顔を上げた。
「あなたのお父さんとお母さん、私のこと娘だって言ってくれたじゃない。だから、恩返しのつもりもあるの」
案外しおらしい物言いに、ガランは困惑した。この女帝の中にある、複雑な感情。権力者としての傲慢さと、家族を求める孤独な少女の心が同居している。
「でも、籍はどうする?」
ガランは現実的な問題を指摘する。
「お前が引退しねえと籍は入れられねえ。法的にも問題があるだろ。俺は内縁でも構わねえけど...」
ニーナは急に明るくなった。目を輝かせて、いたずらっぽく微笑む。
「あ!それは考えがあるから!ちょっと後になるけど!」
「考え?」
「実はね、法律を変えようと思って」
「は!?」
「楽しみにしててね!きっと驚くから!歴史に残る改革よ!」
そう言って、ニーナは機嫌よく立ち上がった。スキップするような足取りで扉に向かう。
「モニカ!アティ!ちょっと来て!」
二人は即座に飛んできた。まるで訓練された犬のような反応速度。ニーナの忠実な子分ムーブに迷いがない。顔は青ざめているが、逆らう素振りは微塵もない。
「はい!何でしょうか!」
「すぐ参ります!」
昨日何かあって和解したらしいが、その内容は謎のままだ。二人の目には、明らかな恐怖と諦めが宿っている。
「一体何を話したんだ?」
ガランがモニカに小声で尋ねる。
「聞かないで」
モニカは青い顔で首を振った。声が震えている。
「お願いだから聞かないで。思い出したくない」
「そ、そうか...」
「ただ一つ言えるのは」
アティが付け加えた。
「私たち、もう逃げられないってこと」
その表情があまりにも深刻だったので、ガランはそれ以上追及しなかった。きっと聞かない方がいいことなのだろう。ニーナの「説得」がどんなものだったか、気の毒にと思った。
---
午後になると、ニーナは「新婚旅行の続き」と称して、途中の港で観光を始めた。小さな漁港だったが、市場は活気に溢れていた。手を繋いで歩く二人の姿は、どこからどう見ても普通の恋人同士だった。
「見て!大きな魚!」
ニーナが興奮して指差す。
「マグロだな。新鮮そうだ」
「食べたい!」
「夕食に買っていくか」
土産物屋では、ニーナが次々と品物を手に取る。
「これ可愛い!」
「貝殻の装飾品か」
「リリーちゃんにお土産にしようかな」
「妹も喜ぶだろうな」
地元の名物料理を食べる時も、ニーナは無邪気に喜んだ。
「美味しい!こんなの初めて!」
「そりゃ、宮廷料理ばっかり食ってたらな」
「違うわ。孤児院の時はもっと質素だったもの」
その言葉に、ガランは複雑な気持ちになる。この女帝の過去。権力の頂点にいながら、心の奥底には孤独な少女がいる。
---
「あれ、女帝様じゃない?」
街の人々がひそひそと囁き合い始めた。
「まさか、でも似てる...」
「本物?」
「隣の男性は誰?」
若い女性が恐る恐る近づいてきた。手には小型の写真機を握りしめている。
「あの...写真撮ってもいいですか?」
「もちろん!」
ニーナは満面の笑顔で応じる。
「ガラン、一緒に撮りましょう」
「おい、まずいんじゃ...」
しかしニーナは既に女性の隣に立っていた。ガランも仕方なく並ぶ。
「はい、チーズ!」
パシャッとシャッター音が響く。
それが合図だったかのように、周囲の人々が一斉に集まってきた。
「私も!」
「僕も撮らせてください!」
「女帝様、こっち向いて!」
セラフィナが慌てて割って入る。
「ダメです!撮影は許可なく...」
「いいのよ」
ニーナが手を振る。
「みんな、どんどん撮って。今日は特別サービス!」
「でも、警備上...」
「セラフィナ」
ニーナの声が急に冷たくなった。
「邪魔しないで」
その一言で、セラフィナは黙り込んだ。これ以上は危険だ。
「...分かりました」
---
結局、セラフィナは諦めて船に戻った。港へ続く道を、とぼとぼと歩いていく。
「ついてこないでって言ったでしょう」
ニーナの苦い顔を思い出して、深いため息をついた。自分は一体何をしているのか。帝国最強の女帝の、お守り役?それとも、ただの邪魔者?
船に戻ると、レイと船員たちがカードゲームをしていた。煙草の煙が充満した食堂で、男たちが輪になって座っている。
「お、隊長。どうだった?」
レイが顔を上げる。
「最悪」
セラフィナは椅子に崩れ落ちた。
「もう写真撮られ放題。明日の新聞が怖い」
「『新女帝、庶民と交際』とか?」
ジャックが笑う。
「笑い事じゃないわ」
「酒飲む?」
トムが瓶を差し出す。
「飲む。絶対飲む。もう酔っ払わないとやってられない」
セラフィナはコップに注がれた酒を一気に煽った。アルコールが喉を焼く感覚が、現実を忘れさせてくれる。
---
夕暮れ時、ガランとニーナが戻ってきた。二人とも土産物の袋を抱えて、楽しそうに笑っている。ニーナの頬は上気して、瞳はきらきらと輝いていた。
「ただいま!」
ニーナが元気よく声を上げる。
「みんなにお土産買ってきたわよ」
袋から次々と品物を取り出す。貝殻の装飾品、地元の銘菓、干物、工芸品。
「レイにはこれ。お酒のつまみにいいでしょ?」
「あ、ありがとうございます」
「セラフィナにはこれ。綺麗なブローチよ」
「恐れ入ります...」
船員たちは複雑な表情でそれを受け取った。女帝からの土産。ありがたいような、恐ろしいような、不思議な気持ちだった。
「船長」
ジャックが小声で話しかける。
「これ、どうなるんですかね」
「さあな」
ガランは肩をすくめた。
「俺にも分からん」
「楽しそうですねえ女帝様」
「...あぁ…」
「さっきなんか、鼻歌歌ってましたし」
ニーナの表情は輝いていた。権力も地位も関係なく、ただ一人の女性として幸せそうだった。土産物を配りながら、一人一人に声をかけていく姿は、遠足から帰ってきた少女のようだった。
---
夜、甲板で二人きりになった時、ニーナが星空を見上げながら呟いた。満天の星が船を包み込むように輝いている。
「ねえ、このまま永遠に飛んでいられたらいいのに」
「あぁ…そうだな…」
「明日は隠れ家に着くな」
「そうね」
ニーナの表情が少し曇る。
「また面倒なことになりそう」
「大丈夫か?」
「あなたがいれば大丈夫」
そう言って、ニーナはガランの腕に寄りかかった。小さな体温が伝わってくる。これが現実なのか、夢なのか、もう分からない。
「ねえ、ガラン」
「ん?」
「私ね、ちょっと本を読んでみたの」
「本?」
「あなたが言ってた小説。月に行く話」
ガランは驚いて彼女を見下ろした。まさかニイナが自分から読むとは思っていなかった。
「面白かったわ。想像もつかない世界だけど、なんだか胸が躍るような気持ちになった」
「だろ?俺もあれ読んだとき、なんかこう、ワクワクしたんだよ」
ニイナは少し黙ってから、ゆっくりと口を開いた。
「ねえ、あの爆弾のこと……国の政策として、研究してみようかしら」
「え?」
「破壊のためじゃなくて、あなたが言ったみたいに、飛ぶために使う方法。ちゃんとした形で研究を進めれば、いつか本当に月に行けるかもしれないでしょう?」
ガランは目を丸くした。ちょっとした話題作りの話だったのだが。
「え?まじで?」
「あなたが言い出したことでしょ。夫の夢を叶えるために国を動かすくらい、やってみせるわ」
その言葉には冗談めかした響きがあったが、瞳の奥には確かな決意が見えた。
「まあ、私たちが生きているうちは無理かもしれないけれど」
「ああ、そうだな」
「でも、いつか私たちの子供と一緒に月に旅行に行けるかもしれないわね」
「……そうだな。そのときは家族みんなで、ふわふわ浮きながら歩くのか」
「あなた、きっとはしゃぎすぎて転ぶわよ」
「うるせえ」
ニイナはくすくすと笑って、再びガランの腕に頬を寄せた。




