第百九話「空の自由」
雷牙号が雲海を突き抜けて上昇する。朝日が操縦室を黄金色に染め上げた。ガランは操縦桿を握りながら、久しぶりに感じる解放感に浸っていた。
輸送業者としての日常が戻ってきた。空の上、この広大な青の中では、彼が唯一の支配者だ。下には果てしない海が広がり、遥か彼方に大地が見える。この空間の中では自分がリーダー。規則を決め、クルーを指導し、航路を選ぶ。なんとなくホッとするような、調子が出てきたような感覚が体中に広がっていく。
「船長、次の寄港地まで順調です」
トムが航路図を持って報告に来た。
「了解。このまま高度を維持しろ」
「了解です」
正式なグレードの高い許可証も手に入れた今、安全な航路を自由に選べる。いろいろあったが、あの冒険は無駄ではなかった。皇居での任務、塩化爆弾の処理、そして...ニーナとの出会い。全てが今の自分を作っている。
操縦を自動に切り替えて、ガランは船長室に戻った。鏡の前に立ち、ビシッといつもの革ジャケットを着込む。髭を整え、髪を撫でつける。これが本来の自分だ。雷牙号の船長、ガラン・ベル。
父親と母親の言葉が頭をよぎる。『モニカって子、いいんじゃないか』。確かにそうかもしれない。でも、流石に昨日の今日で女性陣に声をかけるのはあからさますぎる。
「うん、ちょっとずつだ。ちょっとずつ」
独り言を呟きながら、書類仕事に取り掛かる。
一度離陸すると案外暇なものだ。点検、次の寄港地への手続きの書類作成、貨物の確認。慣れ親しんだ業務が指先から流れるように進んでいく。こういう単調な作業をしている時が、一番心が落ち着く。
ふとカレンダーに目をやると、ガランは息を呑んだ。あれから一年が経っていた。もうすぐ聖火祭の季節だ。去年の今頃は、ニーナと一緒に祭りの準備をしていた。彼女の驚いた顔、初めて見る飾り付けに目を輝かせていた姿。記憶が鮮明に蘇ってくる。
「いや、考えるな」
首を振って立ち上がる。聖火祭は彼の性質上、絶対に外せないイベントだ。ニーナがいようがいまいが、これだけは譲れない。
小さい倉庫に向かい、奥から埃を被った箱を取り出す。中には色とりどりの飾り付け、提灯、聖火を模した装飾品が詰まっていた。子供の頃から集めてきた宝物だ。
「よし、始めるか」
箱を抱えて甲板に出ると、女性陣がすぐに気づいた。
「あら、船長。聖火祭の準備?」
モニカが真っ先に駆け寄ってくる。
「手伝います!」
アティも負けじと近づいてきた。
二人は争うように飾り付けを手伝い始める。
「船長、この飾りはどこに?」
「いえいえ、船長。こっちを先に...」
「去年と同じ場所でいいよ」
ガランは苦笑いしながら指示を出す。
しめしめ、と内心で思う。こうやって自然に距離を縮めていけばいい。急がず、焦らず、ちょっとずつ。
「船長、去年の聖火祭は楽しかったですよね」
モニカが甘い声で話しかける。
「ニーナちゃん...いえ、ニーナ様も喜んでいらしたし」
「そうだな」
ガランは短く答える。
「今年は...私たちだけですけど、きっと楽しくなりますよ」
アティが慰めるように言う。
「新しい思い出を作りましょう」
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男たちは離れた場所でその様子を眺めながら、ため息をついていた。
「なあ、お前」
ジャックがトムに聞く。
「あの金どうした?」
「女に溶かした」
トムが肩を落とす。
「俺は博打...」
ジャックも項垂れる。
「あぁ...」
二人は顔を見合わせて納得した。
「だから女が寄り付かねえんだな...」
「しみじみと反省するわ」
そこへアザリアがやってきた。彼女は他の女性陣とは違い、ガランを狙う様子はない。実は連盟の職員と付き合っており、金も手に入ったことだし、そろそろこの船から降りて落ち着こうかと考えていた。
「船長」
アザリアが声をかける。
「どうした?」
「実は...この一ヶ月の仕事を終えたら、退職しようと思っているんです」
ガランは驚いた顔を見せた。
「急な話だな」
「彼氏が連盟で働いていて...そろそろ結婚を考えているんです」
アザリアは照れくさそうに笑った。
「長い間お世話になりました」
「そうか...寂しくなるな」
ガランは微笑んだ。
「でも、幸せになれよ」
「ありがとうございます」
アザリアの話を聞いていたモニカとアティは、ライバルが一人減ったことに内心でほっとしていた。これでチャンスが増える。
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夕方になり、船は雲の上を滑るように進んでいく。聖火祭の飾り付けが風に揺れて、キラキラと光を反射している。ガランは操縦室で一人、計器を眺めていた。
携帯端末が震える。また着信だ。発信者を見ることもなく、そのまま放置する。もう何回目だろうか。数えるのも馬鹿らしくなってきた。
「船長、夕食の準備ができました」
モニカがノックをする。
「すぐ行く」
食堂では、船員たちが賑やかに食事をしていた。聖火祭の話題で盛り上がっている。去年のことを思い出したくないのに、どうしても記憶が蘇ってくる。ニーナが初めて聖火祭の料理を食べて、目を丸くしていた顔。『こんなお祭り、知らなかった』と言って泣きそうになっていた姿。
「船長、大丈夫ですか?」
モニカが心配そうに覗き込んでくる。
「あぁ、大丈夫だ」
ガランは笑顔を作った。これが今の生活だ。これでいいのだ。
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夜、甲板に出ると、満天の星が輝いていた。聖火祭の飾りが星明かりに照らされて、幻想的な雰囲気を作り出している。
「綺麗ね」
いつの間にかモニカが隣に立っていた。
「あぁ」
「船長...無理しないでくださいね」
「無理なんかしてないさ」
「でも...」
「モニカ」
ガランは振り返った。
「心配してくれてありがとう。でも、俺は大丈夫だ」
モニカは何か言いたそうにしていたが、結局何も言わずに船内へ戻っていった。
一人になったガランは、夜空を見上げた。どこかで、ニーナも同じ空を見ているのだろうか。いや、彼女は今頃、豪華な宮殿で貴族たちに囲まれているはずだ。もう自分とは違う世界の人間なのだ。
「ちょっとずつだ」
呟いて、船長室へ戻る。明日も仕事がある。普通の、平凡な、でも確かな仕事が。それを積み重ねていけば、いつかきっと、この痛みも薄れていくはずだ。
ふと、倉庫に残されたニーナの工具箱が目に入った。小さな手に合わせた特注品。彼女の宝物だった。いつか返しに行かなければならない。
ガランは灯りを消して、ベッドに横になった。船のエンジン音が子守唄のように響いている。これが自分の世界だ。空の上の小さな王国。それで十分じゃないか。
そう思いながら、目を閉じた。夢の中では、まだあの金髪の少女が笑っていた。




