第百八話「新たな航海」
朝靄が立ち込める中、ガランは実家の玄関で靴紐を結んでいた。背後で母親が朝食の片付けをする音が聞こえる。父親は既に農場へ出かけていたが、出がけにガランの肩を叩いて行った。
「流石にこのまま田舎にいるのは肩身が狭すぎるだろ」
リリーが居間から顔を出して言った。
「分かってるよ」
ガランは苦笑いを浮かべる。
「近所の目もあるしな」
母親が手を拭きながら近づいてきた。
「ちょっと輸送業に戻りなさい。こっちのことは私たちで何とか言い訳しとくから」
「すまない、母さん」
リリーが身を乗り出してきた。
「ていうか、船の女の人でいいんじゃない?モニカさんとか、結構兄さんのこと気にしてるみたいだし」
「リリー!」
母親が叱ろうとしたが、意外にも諦めたような表情を浮かべた。
実は両親も同じことを考えていたらしい。父親が戻ってきて、ガランの耳元でヒソヒソと囁いた。
「仕事中にお前から言えば何とかなるだろ。モニカって子、いいんじゃないかな?しっかりしてるし、気立ても良さそうだ」
「父さんまで...」
ガランは嫌な顔をして黙り込んだ。そして、ポケットから通帳を取り出した。
「これ」
「なんだ?」
「稼いだ金だ。迷惑かけたお詫びに」
通帳を開いた父親の目が丸くなった。そこには、皇居での任務で得た報酬が記されていた。相当な額だった。
「こんなに...」
母親が微笑んだ。
「ありがとう」
両親は笑顔で息子を見送った。
「ガラン、体に気をつけて」
「あぁ」
門を出ようとした時、父親が追いかけてきて耳打ちした。
「次戻ってくる時には嫁を見つけてくればいい。まあ、なるべく急げよ。母さんの心労がやばいからな」
「分かってる」
ガランは苦笑いした。
「努力するよ」
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街の空港に預けていた雷牙号は、朝日を浴びて鈍く輝いていた。船員たちは既に集まっており、ガランの姿を見ると歓声を上げた。
「船長!」
「よし、仕事再開だ」
ガランは手を上げて応えた。
まず最初にやらなければならないのは、航空連盟への書類提出だった。クルーリストの更新。ガランは重い足取りで連盟の事務所へ向かった。書類を手に取り、ニーナ・クロウの名前を見つめる。
削除すべきだ。そう思って、ペンを手に取った。だが、ふと手が止まる。
待てよ、とガランは考え始めた。公人として問題になるのは「ニーナ・ボム」だ。新女帝ニーナ・ボム。だが、ここに書いてあるのは「ニーナ・クロウ」。孤児院出身の元軍人。書類上は完全に別人じゃないか。
同一人物だけど、法的には別人として扱える。じゃあ、残していても問題ないんじゃないか?
いや、何を考えてるんだ俺は。ガランは頭を振った。これは明らかに未練だ。血迷ってる。でも...でも、もしかしたら、いつか彼女がまた船に乗りたいと言ってきた時に...
馬鹿な考えだ。女帝が一介の船員に戻るわけがない。それでも、ガランの手はペンを置いた。削除の線を引くことができない。
「どうされました?」
受付嬢が心配そうに声をかける。
「いや...」
ガランは書類を見つめたまま答えた。
「変更なしで」
「え?でも新女帝様の名前が...」
「ニーナ・クロウは女帝じゃない。ただの船員だ」
受付嬢は困惑した表情を浮かべたが、ガランの真剣な眼差しに何も言えなくなった。
「...承知いたしました。変更なしで受理します」
「ありがとう」
意気揚々と自分の扶養に入れたニーナの名前が、そのまま残る。たった数週間前、彼女を正式な船員として登録した時の喜びを思い出す。あの時の彼女の照れくさそうな笑顔。それを消すことができなかった。
俺って本当にダメな男だな、とガランは自嘲した。でも、この小さな未練くらい、許されるだろう。
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船に戻ると、船員たちが待ち構えていた。
「さあ、仕事の再開だ!」
ガランは声を張り上げた。
「まずは整備点検から始める。明日の朝一で出航するぞ!」
船員たちはワイワイと騒ぎ始めた。この珍妙すぎる出来事に、全員が興奮していた。
「いやー、俺は絶対ただ者じゃないと思ったね!」
ジャックが興奮気味に言う。
「あの時から何か違うオーラがあったもん!」
「ほら、女帝様の使ってた作業着!」
トムが倉庫から持ち出してきた。
「これ博物館ものだぜ!マニアに売れるんじゃない?」
「バカ言うな」
ガランが睨む。
「それはニーナのものだ。勝手に売るな」
女性陣は別の場所で集まっていた。
「あー、ニーナちゃん...いや、ニーナ様?いなくなっちゃったなあ」
アティが寂しそうに言う。
彼女が船に残していった道具や工具箱を見つめる。小さな手に合わせた特注の工具。丁寧に整理された部品箱。全てが彼女の几帳面な性格を物語っていた。
「船長もだらしないわね」
モニカが腕を組んだ。
「いっそのこと攫って逃げればよかったのに」
「何の得があるんだよ」
ガランは荷物の受け渡し書類を見ながら答えた。
「皇族誘拐とか、縛首刑確定じゃねえか」
モニカは心配そうな表情を浮かべた。
「まあ、ニーナ様にもショックな話よね。向こうでうまくやっていけるのかしら...」
「いや、それが」
ガランは苦笑いした。
「向こうですげえ剣幕でな。血のなせる業っていうのかね、お偉いさんをビビらせてんのよ」
「嘘でしょ?」
「本当だ。四大家も震え上がっててな。あのメルベルがペコペコしてたよ」
「うっそだあ!」
船員たちが爆笑した。
「じゃあ船長じゃどのみち結婚生活長続きしなさそう!」
アティが無邪気に言った。
「だって、怒らせたら殺されちゃうじゃない!きゃははは!」
結構酷いことを言われて、ガランは舌打ちした。
「ちっ、あぁそうさ。俺はヒモになる運命だったろうよ」
自嘲的に笑う。
「ほら、お前ら早く整備点検しろよな。これやらなきゃ飛べねえんだ。明日の朝までに全部終わらせとけよ」
そう言って船長室へ向かう。扉を閉めた瞬間、深いため息が漏れた。机の上には、まだニーナが使っていたマグカップが置いてある。小さな手に合わせた可愛らしいデザイン。捨てるに捨てられず、そのままにしてある。
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一方、ガランが去った後の格納庫では、奇妙な緊張が生まれていた。女性陣の間に、目に見えない火花が散っている。
「ねえ、いい香水つけてるわね」
モニカがアティを見た。
「新しいの?」
「そう?たまたま買ったのよ」
アティは髪をかき上げた。
「でも、どうせ汗まみれになるのに化粧して意味ある?」
「女としての身だしなみよ」
モニカが睨み返す。
「それくらい分からない?」
二人の間に流れる空気は、まさに戦場のそれだった。今、傷心のバツイチ船長。ニーナとの関係が終わった今、新たな戦いと駆け引きが始まっていた。休暇中に酔った勢いで「実は狙ってた」と吐露してしまったことが、この状況を生んでいた。
男性陣はそれを横目で見ながら、ため息をついていた。
「なんで船長ばっかり...」
ジャックがぼやく。
「諦めろよ」
トムが肩を叩いた。
「女って一番上しか目に入らねえんだ」
「でもよ、俺だって頑張ってるじゃねえか」
「頑張りの方向が違うんだよ」
アザリアが苦笑いした。
「船長みたいに、命懸けで女を守ったことあるか?」
「...ねえな」
「だろ?」
三人は肩を落として整備に戻った。その様子を見ていたモニカは、小さく微笑んだ。確かにガランは特別だ。でも、だからこそ...
「船長、コーヒーでも淹れましょうか?」
モニカが船長室のドアをノックした。
「いや、いい」
中から疲れた声が返ってきた。
「一人にしてくれ」
モニカは扉の前で立ち止まった。今はまだ早い。ニーナとの傷が癒えるまで、待つしかない。でも、いつかきっと...
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夕暮れ時、整備がほぼ終わった頃、ガランは甲板に出てきた。オレンジ色の空を見上げながら、煙草に火をつける。
「船長」
モニカが近づいてきた。
「夕食、どうします?」
「適当でいい」
「でも、ちゃんと食べないと」
「分かってる」
二人は並んで夕日を見つめた。沈黙が流れる。モニカが口を開きかけて、また閉じる。言いたいことは山ほどあるのに、言葉にならない。
「モニカ」
ガランが突然口を開いた。
「はい?」
「ニーナの荷物、大事に保管しといてくれ」
「...分かりました」
「いつか、返しに行かなきゃならないからな」
モニカは複雑な表情を浮かべたが、頷いた。ガランの心にはまだ、あの小さな金髪の少女がいる。それは分かっていた。でも、時間が解決してくれるはずだ。そう信じて、モニカは船内へ戻っていった。
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夜になり、船員たちは街の酒場へ繰り出していった。ガランは一人船に残り、航路の計画を立てていた。明日からまた、普通の運送業者としての日々が始まる。それでいいのだ。そう自分に言い聞かせながら、地図に線を引いていく。
携帯端末が震える。また着信だ。発信者の名前を見ることもなく、電源を切った。もう百回は超えているだろう。でも、出ることはできない。出たら、全てが崩れてしまう。
窓の外では、新女帝誕生を祝う花火がまた上がっていた。美しい光が夜空を彩る。ガランは窓を閉めて、カーテンを引いた。見たくない。思い出したくない。忘れたい。でも、忘れられない。
「くそっ」
小さく悪態をついて、ガランは机に突っ伏した。明日から新しい生活が始まる。ニーナのいない、普通の生活が。それが正しい選択だったと、いつか思える日が来ることを願いながら。




