第百七話「帰郷の涙」
飛行機を三度乗り継いで、ガランはようやく故郷の空港に辿り着いた。夕暮れの光が滑走路を赤く染めている。数週間前、ニーナと二人で新婚旅行に出発した時と同じ時間帯だった。駐車場に向かって歩きながら、あの時の彼女の弾けるような笑顔を思い出す。まさか一人で帰ってくることになるとは、あの時は夢にも思わなかった。
車を見つけた。埃を被った愛車のドアハンドルには、聖火の岬で買った小さなキーホルダーがぶら下がっている。海鳥の形をした安っぽい土産物。ニーナが「可愛い!」と言って選んだものだ。手に取ると、あの日の記憶が鮮明に蘇ってくる。夢じゃない。全てが馬鹿げた事実だ。
エンジンをかけて街へ向かう。道中、何枚彼女のポスターを見たことか。『新女帝ニーナ・ボム即位』『帝国に新たな時代が』『史上最年少の女帝誕生』。どの写真も白い軍服に身を包んだ凛とした姿で、葡萄畑で泥だらけになって笑っていた少女の面影はどこにもない。
「新婚旅行に出て、一人で帰ってくる...」
独り言が漏れる。情けなさすぎて涙が滲んだ。ハンドルを握る手に力が入る。
「俺って最低のクズ野郎だよな...」
メルベルがニーナを手籠めにしようとして無理を言っているんだと勘違いしていた時は、自分にも覚悟があった。あの化け物みたいな男にぶん殴られても、殴り殺されても、ニーナは渡さない。そう決めていた。なのに、予想の斜め上すぎる展開。女帝だと?皇族だと?笑い話にもならない。
しかも厄介なのは、ニーナには別れるつもりが全くないように見えたことだ。あの必死な目、震える声、縋るような手。彼女は本気で自分との関係を続けるつもりなのだ。女帝と農家の倅の恋愛関係。どう考えても無理がある。
「このまま世間にバレたら...」
ガランは苦笑いを浮かべた。熱心な皇族支援者に闇討ちされてもおかしくない。不敬罪で逮捕されるかもしれない。いや、それ以前に両親が近所で肩身の狭い思いをすることになる。
家が見えてきた。夕食の支度をする煙が煙突から上がっている。平和な風景だ。車を家の前に停めると、カーテンの隙間から覗く近所の人々の視線が突き刺さる。噂は既に広まっているらしい。ガランは深呼吸をして、覚悟を決めて玄関の扉を開けた。
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「ガラン船長!」
居間から船員たちの声が響いた。モニカ、トム、ジャック、アザリア、アティ。全員がソファや床に座り込んで、酒瓶を並べていた。どうやら両親の家で待機していたらしい。
「おかえり、ヒモ船長!」
ジャックが真っ先に立ち上がって叫んだ。次の瞬間、ガランの拳が彼の顎を捉えた。
「ぐはっ!」
ジャックが床に転がる。他の船員たちが慌てて止めに入る。
「おいおい、冗談だって!」
「冗談じゃねえ」
ガランは低い声で言った。
「お前ら、酒場に行け。今は家族だけの話だ」
船員たちは顔を見合わせた。モニカが心配そうに口を開く。
「でも船長...」
「頼む」
ガランの声には疲労が滲んでいた。
「後で説明する」
船員たちはしぶしぶ立ち上がり、一人また一人と家を出て行った。モニカは最後まで振り返りながら、ドアを閉めた。
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静かになった居間に、両親と妹たちが集まってきた。父ロベルトは腕を組んで立っている。母マルタは心配そうな顔でガランを見つめている。末妹のリリーは興味深そうに兄を観察していた。
「座れ」
父の一言で、ガランは椅子に腰を下ろした。そして、深呼吸をしてから話し始めた。メルベルとの出会い、ニーナの正体が判明した経緯、皇居での出来事、そして自分が下した決断。全てを包み隠さず話した。
「...というわけで」
ガランは項垂れた。
「ごめん。結婚は無理だ」
言葉を絞り出すのがやっとだった。流石に両親を前にして、涙が溢れてきた。大の大人が、しかも30にもなって親の前で泣くなんて。情けなさと申し訳なさで胸が詰まる。
しばらくの沈黙の後、母親が口を開いた。
「通りでできすぎた話だと思った」
意外にも、マルタは苦笑いを浮かべていた。
「あんなに可愛い子が、うちみたいな農家に嫁に来るなんて、何か裏があると思ってたのよ」
「母さん...」
「まさか女帝様だったとはね」
マルタは肩をすくめた。
「さすがに想像の外だったけど」
父親も重い口を開いた。
「次は親御さんが誰かわかってる子にしろよ」
ロベルトの言葉には叱責よりも、息子への心配が込められていた。
「今回みたいな騒動はもう勘弁だ」
妹たちの反応は様々だった。既婚の姉たちは同情的な目でガランを見ていたが、リリーは目を輝かせて言った。
「ねえ兄さん、サインとかもらってきてくれない?友達に自慢できる!」
「バカ言うな」
ガランは呆れた。
「だって新女帝よ!?兄さんの元カノが女帝なんて、すごいじゃない!」
「元カノじゃねえ...」
「じゃあ何?まだ続いてるの?」
リリーは身を乗り出した。
「だったら愛人でいた方が良くない?お金とか権力とか...」
「リリー!」
母親の鋭い声が響いた。
「何てこと言うの!お兄ちゃんがそんな卑しい真似するわけないでしょう!」
リリーは肩をすくめて黙った。
ガランは両手で顔を覆った。涙が止まらない。
「マジでごめん、母さん、父さん」
嗚咽混じりの声で謝り続ける。
「俺、本当にダメな息子で...迷惑ばっかりかけて...」
両親は息子の両肩を抱いた。母の手が優しく背中を撫でる。父の大きな手が肩を叩く。
「泣くな」
ロベルトが言った。
「お前は正しい選択をした。身分違いの恋なんて、物語の中だけで十分だ」
「でも父さん、俺...」
「いいんだ」
マルタが優しく言った。
「あの子も可哀想だけど、これが運命なのよ。お前は悪くない」
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窓の外では、夜が深まっていく。新女帝誕生を祝う花火が遠くで上がっているのが見える。美しい光が夜空を彩るたびに、ガランの胸は締め付けられた。あの花火を、ニーナは一人で見ているのだろうか。それとも、豪華な宴席で貴族たちに囲まれているのだろうか。
「風呂に入って、飯食って、寝ろ」
父親が立ち上がりながら言った。
「明日から、また普通の生活に戻るんだ」
「うん...」
ガランは鼻を啜りながら頷いた。普通の生活。それが自分の居場所だ。女帝の愛人なんて…。農家の長男として、地道に生きていく。それでいいのだ。そう自分に言い聞かせながら、立ち上がった。
だが心の奥底では、まだニーナの泣き顔が焼き付いていた。『どこに行っていたの!?』と叫んだ彼女の声が、耳から離れない。本当にこれで良かったのか。その問いに、答えは出なかった。
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夕食の席で、家族は努めて明るく振る舞った。妹たちが職場の話をし、母親が近所の噂話を語り、父親が農場の収穫について話す。ガランも相槌を打ち、時々笑顔を作った。でも誰もが分かっていた。この食卓に、一人分の席が空いていることを。つい数週間前まで、そこに座っていた小さな金髪の少女のことを。
「ニーナちゃん、元気にしてるかしら」
ふと、母親が呟いた。
「母さん...」
「いえ、ごめんなさい」
マルタは首を振った。
「つい...」
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その夜、ガランは自分の部屋で天井を見つめていた。子供の頃から変わらない天井の木目。本棚に並ぶ冒険小説。机の上の船の模型。全てが昔のままだ。まるで、この数ヶ月が夢だったかのように。
でも、枕元に置いた携帯端末が、それが現実だったことを物語っている。ニーナからの着信履歴。既に五十回を超えていた。出ることはできない。出たら、また彼女の声を聞いてしまう。そうしたら、きっと決心が揺らぐ。
ガランは目を閉じた。明日からまた、雷牙号での仕事を再開しよう。普通の運送業者として、普通の人生を送ろう。それが、自分にできる最善のことだ。そう信じて、眠りについた。




