第百六話「別離の決断」
朝の光が皇居の窓から差し込む中、ガランは通信機を手に取った。故郷の番号を押す指が微かに震える。呼び出し音が三回鳴った後、母親の声が聞こえてきた。
「ガラン!?あんた無事なの!?」
マルタの声は安堵と混乱が入り混じっていた。背後で父親の怒鳴り声も聞こえる。
「いやまじで、俺も驚いてるんだ」
ガランは額を押さえながら言った。
「すまない母さん。こんなことになるなんて思ってもみなかった」
「テレビで見たわよ!あの子が...新女帝だなんて...どういうことなの?」
「長い話になる。電話じゃ説明しきれねえ」
ガランは深いため息をついた。
「家にすぐ戻って話すよ。父さんにも迷惑かけっぱなしでごめんって言ってくれ」
「あんた、大丈夫なの?怪我とかしてない?」
「大丈夫だ。二日後には戻るからさ」
「でも、ニーナちゃんは...」
「母さん」
ガランは静かに遮った。
「俺たちの関係は、もう終わりだ。詳しくは帰ってから話す」
電話を切った後、ガランはしばらく受話器を見つめていた。両親の困惑した声が耳に残る。近所の人々は今頃どんな噂をしているだろうか。息子が女帝を攫ったとか、逆に捨てられたとか、様々な憶測が飛び交っているに違いない。
---
皇居の部屋に戻ると、廊下が騒がしかった。警備兵たちが慌ただしく走り回っている。
「戻ってきた!ガラン様が戻られた!」
若い兵士が安堵の表情を浮かべて駆け寄ってくる。
「ニーナ様がお探しです!すぐに謁見室へ!」
ガランは苦笑いを浮かべて小声で呟いた。
「はいはい、迷子のわんちゃんが戻ってきたぜ...」
自分を嘲笑しながら、重い足取りで歩き始める。兵士たちの視線が痛い。彼らの目には、自分がどう映っているのだろうか。女帝の愛人?それとも哀れな操り人形?
---
謁見室の扉を開けると、ニーナが待っていた。彼女は振り返ると同時に飛びついてきた。
「どこに行っていたの!?心配したじゃない!」
その声には怒りと安堵が混じっている。ガランは優しく、しかししっかりと彼女の肩を掴んで距離を取った。
「ちょいと散歩だ」
にこりと笑ってみせる。
「なあ、ニーナ。俺はちょっと家に帰らなきゃ」
ニーナの顔が一瞬で青ざめた。
「え?」
「まあこんなことになってもう数週間家に戻ってねえ」
ガランは努めて軽い調子を保った。
「親に色々話してこねえといけないし、船員の連中も放って置けねえ」
「でも...でも私は...」
「それに連盟に出した書類もある」
ガランは続けた。
「扶養の書類、あれも書き直さねえとな。お前の名前がクルーリストに載ってるのはまずい。女帝様が一介の船員じゃ体裁が悪いだろ?」
「そんなの関係ない!」
ニーナの声が震えた。
「書類なんてどうでもいい!」
「連盟は独立してるんだ」
ガランは静かに、しかし確固とした口調で言った。
「公人がクルーなのは違反なんだよ。俺の船が航行停止処分になっちまう」
ニーナは必死に何か言おうとしたが、言葉が出てこない。その様子を見ていた控えのブレイド隊員たちは、微妙な表情を浮かべていた。彼らの心中は複雑だった。大丈夫か?ご機嫌係のこの男がいないと、自分たちに明日はあるのか?しかし同時に、ガランが自分からこの異様な関係から離れようとしてくれているのは、やはりこの男が常識人だからという証拠でもある。普通ならもっとこの状況を利用してもおかしくないが、そのつもりはないらしい。
「すぐにでも行かねえと」
ガランは時計を見た。
「また連絡する。ブレイドの連絡先でいいだろ?」
隊員たちに顔を向けると、彼らは曖昧に頷いた。
「えーと」
ガランはニーナの肩を軽く叩いた。
「ニーナ」
「な、何?」
子犬のように怯えた目で見上げる。
「あんまり他の連中を脅すんじゃねえぞ」
ガランの声は優しかった。
「何事も限度ってもんがある。優しくしてやらなきゃ一人ぼっちになっちまう」
ニーナの顔が凍りついた。知っているんだ、という声にならない悲鳴が心で上がった。会議での自分の振る舞い、部下たちへの暴力、全てを知られている。恥ずかしさと恐怖が入り混じって、言葉が出ない。
ガランは手ぶらにコートを羽織ると、軽く手を上げた。
「じゃあ諸君!任務ご苦労!」
そのまま振り返ることなく部屋を出て行く。ニーナは呆然と廊下に立ち尽くし、年相応の小さな体で去っていく夫の姿を見送った。その背中がどんどん小さくなっていく。手を伸ばしたいのに、体が動かない。声を出したいのに、喉が詰まって何も言えない。
---
外に出たガランは、深く息を吸い込んだ。皇居の重苦しい空気から解放されて、ようやく自分を取り戻した気がする。
「はーぁ」
長いため息が漏れる。自分の決断が正しかったのかどうか、確信が持てない。この行動は正しいような気もするし、自分の酷いわがままな気もする。このままニーナと誰にも言えない関係を続けるべきだったような気もするし...
記憶が次々と蘇ってくる。ニーナが初めて船に逃げ込んできた時のこと。ラムザと一緒に、演説で襲撃されて必死の形相で助けを求めてきた。船での彼女の悲しい叫び声が耳に残っている。
『私は貧しい孤児院の子よ!こんなお祭りなんてしたこともないわ!あなたのようなドラ息子に何がわかるの!』
あの時の彼女の目には、本物の痛みがあった。だからこそ、船で用意した誕生日のアップルパイ。彼女の涙。そして、彼女を助けるためにテロ集団の基地に忍び込んだこと。命がけで守ろうとした小さな存在。
「なんで俺っていつもダメなんだろう」
独り言が漏れる。やっとまともになったと思ったけど、こんな馬鹿げたミラクルでご破算なんて誰が予想する?
歩きながら、葡萄畑での日々を思い出す。朝露に濡れた葡萄の房、ニーナの無邪気な笑顔、母親の温かい料理、妹たちの騒がしい声。確かに幸せだった。
皇居の門を出ようとした時、背後から何かが聞こえた。女性の叫び声のような、泣き声のような。そして大きすぎる炸裂音が響き渡った。振り返ると、皇居の一角から煙が上がっている。窓ガラスが砕け散り、破片が陽光を反射してキラキラと舞い落ちていく。
「ニーナ...」
一瞬足を止めたが、ガランは首を振って歩き続けた。もう自分には関係ない。彼女は女帝だ。圧倒的な力を持つ支配者だ。自分なんかがいなくても、きっと大丈夫だろう。そう自分に言い聞かせながら、重い足取りで街へと向かった。
だが心の奥底では分かっていた。あの爆発音は、ニーナの怒りと悲しみの表れだということを。そして、自分が彼女を一人にしてしまったということを。これが自分の選んだ道だ。
街の喧騒が近づいてくる。人々の日常の声、商人の呼び込み、子供たちの笑い声。これが普通の世界だ。自分が戻るべき場所だ。ガランは深呼吸をして、群衆の中へと消えていった。
---
皇居では、ニーナがまだ廊下に立っていた。小さく震える肩。握りしめた拳から血が滲んでいる。周囲の兵士たちは恐怖に怯えながら、誰も近づけずにいた。




