第百三話「演技と真実」
廊下を歩きながら、三人は異様な光景を目にした。
ニーナの部屋の前で、侍女たちと制服姿の警護官たちが、げっそりとした顔で壁にもたれている。まるで戦場から帰還した兵士のような憔悴ぶりだった。
「連れてきました」
レイが報告すると、侍女たちの顔がパッと明るくなった。
「ああ、良かった!」
年配の侍女が安堵の息を漏らす。
「ニーナ様がお待ちです。どうぞ、中へ——」
ガシャン!
部屋の中から、何かを叩き割る音が響いた。
「何?」
ガランが眉をひそめる。
「中で何が起こってる?」
「それは、その……」
侍女たちが冷や汗をかきながら視線を逸らす。
「ちょっとした、お怒りで……」
「怒り?」
バリン!
また何かが割れる音。
若い侍女が震え声で扉に向かって叫んだ。
「ニーナ様! ガラン様をお連れしました!」
ピタリと音が止んだ。
不気味なほどの静寂が廊下を包む。
「……入れ」
中から、低い声が聞こえてきた。
ガランを先頭に、三人が恐る恐る部屋に入る。
「うわ……」
レイが思わず声を漏らした。
部屋は、まるで台風が通過した後のようだった。おそらく数時間前までは豪華絢爛だったであろう調度品の残骸が、床一面に散らばっている。割れた酒瓶、粉々になった壺、砕け散った彫刻、ひっくり返ったテーブル。壁には焦げ跡があり、法力で焼かれたような痕跡も見える。
唯一無事だったソファーに、ニーナとラムザが座っていた。
「やっと来た!」
ラムザが疲れ果てた顔に笑顔を浮かべる。その表情は、救世主を見つけた難民のようだった。
ニーナがゆっくりと立ち上がる。
「ガラン……」
「ええっと……」
ガランが部屋を見回す。
「この部屋は、その……」
言葉を選びながら続ける。
「あ、いや……ニーナ、話は聞いたよ」
肩を落とし、項垂れる。
「お前が、その……女帝だって」
ニーナは返事の代わりに、駆け寄ってガランに抱きついた。
「ガラン!」
「おっと」
ガランは一瞬躊躇したが、しっかりと抱きしめ返した。温もりを確認してから、少し離れて顔を見つめる。
「まじでビビったよ……」
苦笑いを浮かべる。
「あの度々来てた連絡って、こういうことだったのか……先に言えよな」
「だって……」
ニーナが俯く。
「悪い冗談だと思ったし……信じられなかったから……」
嘘だった。本当は逃げたかっただけ。でも、ガランの前では素直な少女を演じなければ。
ラムザは心の中で大きく息をついた。
(やっと人間らしくなった)
さっきまで暴れ狂っていた怪物が、ガランの前では普通の女の子になっている。この男の存在がどれほど重要か、改めて実感した。
ガランは、ニーナの着ている白い軍服を見つめた。金の装飾、銀の刺繍、胸元の紋章。
(こりゃ、普通の服じゃねえな)
部屋は荒れ果てているが、偉い家来がニーナ一人に大勢ついている。現在皇帝のはずのラムザまで、まるで召使いのようにニーナに付きっきりだ。
(悪い冗談じゃねえ。本当だったんだ)
床に転がっている壺の破片を指差す。
「あれ、壊したのお前?」
「そ、その……ちょっと……」
ニーナが渋い顔をする。
「イライラして……」
ガランは壺の破片をじっくりと見た。繊細な模様、上質な釉薬。
(大体三百年前の値打ちもののツボだな。超お宝)
内心で驚愕する。
(あれをぶっ壊して、誰もお咎めなし。こりゃすごい)
天井を見上げる。高く、緻密で豪華な天井画が描かれている。神話の一場面だろうか、神々が雲の上で宴を開いている。壁にぶっ飛んだワインのシミが、その神聖な空間に混沌をもたらしていた。
(世界が違う……)
ガランは愕然とした。
自分の世界は、古本屋で買った本棚、安売りの遮光カーテン、子供の頃に開けた窪み、背の高さを測った傷だらけの柱、プラモデルのコレクション。船は懸命に改造を繰り返した中型輸送船。実家の葡萄畑とワイン工場。
そして、そのワイン工場は——
(いわば、ニーナの財産だ)
ベオルブ家の所有地。自分はその召使いの家の長男。輸送船にしても、ニーナが気分で壊した調度品一つで買えそうな価格だ。
(目の前の、俺を見上げている女は……)
心の中で愕然とした。
「なあ……」
ガランは両肩に手を置いて、しっかりと話そうとした。
(世界が違った。俺には身の余る、都合の良すぎる話だ)
他の人間も見ている。ここでニーナに恥をかかせるわけにはいかない。
(ちゃんと、けじめをつけないと)
そう思って、口を開こうとした瞬間——
ニーナは電撃的に理解した。
ガランが何を言おうとしているのか。その真剣な表情、肩に置かれた手の重さ、少し離れた距離。
(捨てられる!)
脳裏に閃いた言葉。
(壊れる! 心が壊れる!)
瞬間的に、ニーナは演技を始めた。
がっしりと素早くガランの体に抱きつき、震え声で叫ぶ。
「いじめられたの!」
「え?」
「怖かったわ! みんなが私を睨んで!」
涙を流しながら続ける。完璧な演技だった。
ラムザが目を丸くして、慌てて首を振る。
「いやいやいやいや!」
(姉上、何を言って——)
「さっき偉い人たちの部屋に連れて行かれて」
ニーナが泣きじゃくりながら続ける。
「いろんなこと言われて、いじめられたの! 助けて、ガラン!」
か弱い少女を完璧に演じている。
「まじかよ……」
ガランの表情が変わった。さっき言おうとしていた「別れ話」が、完全に吹っ飛んだ。
「そりゃそうだよなあ……ちょっと前まで葡萄摘みして、ワイン詰めしてたのに……」
「よくわからないこと、たくさん言われて!」
ニーナが演技を続ける。
「ベオルブ家の人に、色々言われて、バカにされた!」
「ベオルブ家?」
「『農家の嫁』とか『泥にまみれてろ』とか! ガラン、助けて!」
レイとセラフィナは顔を見合わせた。
(いや、待て)
セラフィナは心の中で叫ぶ。
(うちの母上が無礼を言って、ぶっ飛ばされて、今トラウマになってるんだけど……)
(泣きたいのはこっちなんだが)
会議室を破壊し尽くして、四大家の当主たちを震え上がらせたのは誰だ。
レイは苦笑いを浮かべた。
(すごい演技力だな)
セラフィナが何か言おうとすると——
ガランの肩越しに、ニーナが恐ろしい顔で睨みつけてきた。
『余計なことを言ったら、殺す』
そう目が語っている。
「だ、大丈夫だ」
ガランがニーナの背中を撫でる。
「ほら、ラムザ様も手伝ってくれるんだろ? やっと会えた弟じゃねえか」
「そうだよ、姉上」
ラムザが慌てて合わせる。
「僕がついてるから」
「メルベル様もなんとかしてくれるよ」
ガランが続けるが、ニーナは激しく首を振る。
「いやいや! みんな怖い!」
「じゃあ……」
ガランが優しく頭を撫でる。
「いざとなったら、俺が攫って遠くに連れてってやるよ」
「本当!?」
ニーナの目が輝く。演技ではない、本心からの喜びだった。
「だから、もうちょっとだけ頑張ってみよう、な?」
セラフィナとラムザが同時に口を開きかける。
「いや、それは——」
ニーナの殺気のこもった視線で、二人とも黙った。
「全く……」
ガランがため息をつく。
「親にどう説明すりゃいいんだ……近所のいい笑いもんだぜ、俺は」
「ど、どうして?」
ニーナが動揺する。これも演技ではなかった。
「だってさ」
ガランが苦笑する。
「さっきレイやセラフィナにも言われたけど、夫婦は現実無理だぜ。諦めるしかねえ」
雷に打たれたような衝撃が、ニーナの全身を貫いた。
「世間様が許してくれねえよ」
ガランが続ける。
「俺はお前の家の召使いの家の長男。世間体ってもんがあるだろ」
ニーナの視線が、ゆっくりとレイとセラフィナに向けられた。
「あ、いや! それは!」
レイが慌てる。
「なんとかなります!」
セラフィナも必死にフォローする。
「世間体には、その、ニーナ様が視察と休暇を兼ねて来たと言えば……その……」
しどろもどろになる二人。
ニーナの顔が、ガランから見えない角度で、鬼の形相に変わった。
「二人とも、ご苦労!」
ラムザが慌てて立ち上がる。
「下がっていい! 今すぐ!」
レイとセラフィナは、殺されないうちにと部屋から飛び出した。
扉を閉めた瞬間、二人は壁にもたれかかった。
「あっぶねぇ……」
レイがどっと汗をかく。
「死ぬかと思った」
「あれね……」
セラフィナが呟く。
「なんだよ」
「船長がいないと、命がいくつあっても足りないわ」
汗を拭きながら続ける。
「この際だから、都にずっといてもらいましょうよ」
「賛成」
レイが頷く。
「じゃないと、俺たち全員殺される」
部屋の中からは、ニーナの泣き声とガランの優しい声が断片的に聞こえてくる。
「大丈夫、大丈夫……」
「本当に連れて行ってくれる?」
「ああ、約束する」
侍女たちが、安堵の表情で顔を見合わせていた。
嵐は、一時的に収まったようだった。




