第百話「女帝の威光」
皇宮の控え室は、朝の光で満たされていた。
白い軍服に身を包んだニーナの姿を、侍女たちは息を呑んで見つめている。金の装飾が施された肩章、胸元で輝く双頭鷲の紋章、銀糸で刺繍された袖口——全てが最高級の素材で仕立てられた、皇族専用の礼装だった。
「まあ……」
年配の侍女が、震える声で呟いた。
「まるで、亡きアジョラ様が蘇られたかのよう……」
別の侍女も目に涙を浮かべている。
「若い頃のアジョラ様に、本当にそっくりでいらっしゃいます。あの頃の、凛とした美しさが……」
金髪が軍服の純白と見事に調和し、赤い瞳が異様なまでの存在感を放っている。陶器のような白い肌は、この世のものとは思えない幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「お似合いです、ニーナ様」
メルベルが深々と頭を下げる。その態度は、完全に臣下のそれだった。
(まるで着せ替え人形みたい)
ニーナは鏡の中の自分を見つめた。これが本当に自分なのか、まるで実感が湧かない。ついこの間まで、葡萄畑で土にまみれていた自分と同一人物とは思えなかった。
「参りましょう」
メルベルが重厚な扉を開ける。
「四大家の方々が、お待ちです」
廊下を歩きながら、ニーナは小さくため息をついた。カツカツと響く軍靴の音が、まるで処刑台への歩みのように感じられる。
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会議室の巨大な扉が、厳かに開かれた。
「お連れいたしました」
メルベルが恭しく告げると、室内にいた全員の視線が一斉に入口へと集まる。
重装備のブレイド隊員二名を従えて、ニーナがゆっくりと入室した。
シャンデリアの光を受けて、白い軍服がまばゆく輝く。その姿は、まさに若き日のアジョラ・ボムその人だった。
メルベルが素早く上座の椅子を引く。完全に召使いとしての所作で、一分の隙もない。
(そういえば……)
その場にいた古参の貴族たちが、遠い記憶を呼び起こす。かつて、メルベルは義母アジョラにも同じように仕えていた。『そこまでしなくていい』と窘められながらも、変わらず忠実に仕え続けていた姿を。
ベオルブ家の当主イナンナ、イシュタル家の当主エレシュキガル。二人の女性が、同時に息を呑んだ。
(この顔……完全にアジョラ様と瓜二つ)
しかし、決定的に違うのは瞳の色だった。血のような赤い瞳が、まるで獲物を狙う肉食獣のように、彼女たちを射抜く。
(何か、私たちとは根本的に違う生き物のような……)
会議室全体が、異様な緊張感に包まれた。
「亡きアジョラ様のご息女」
メルベルが厳かに宣言する。
「帝位継承権第一位の、ニーナ様です」
ニーナは顎をわずかに上げ、氷のような声で言った。
「ニーナ・ボムです」
たった一言の自己紹介。しかし、その威圧感は計り知れなかった。
エンキドゥが慌てて立ち上がり、満面の笑みを浮かべる。
「皆さん、これで我々の抱えていた継承問題も解決だ!」
隣に座っていたラムザも、静かに立ち上がった。
「私は、古来の習わしに従います」
まだ13歳の少年皇帝が、深々と頭を下げる。
「姉上に、この帝位をお譲りいたします」
その瞬間、まるで堰を切ったように、会議室が騒然となった。
「女帝陛下! まず東征大陸の件を!」
ギルガメシュ・ナブが身を乗り出す。
「現在、三つの主要都市で同時蜂起が発生しております! 鎮圧部隊を派遣しましたが、反乱軍の抵抗は激しく——」
「それどころではありません!」
エレシュキガルが声を荒らげる。
「国内のテロこそ最優先でしょう! 先週だけで五件、いや六件の爆破事件! 自由戦線の活動が日に日に——」
「何を言っている! 経済が崩壊寸前だぞ!」
別の貴族が立ち上がって叫ぶ。
「法石の産出量が前年比で30%も減少! このままでは国庫が——」
「軍備の再編成を急がねば——」
「いや、税制改革が先だ! 民衆の不満が——」
「民主制への移行要求をどう扱うおつもりか!」
「緑海大陸でも不穏な動きが——」
「貿易収支の悪化を——」
「いやいや、司法制度の——」
声が重なり合い、怒号が飛び交い、もはや収拾がつかない状態になっていた。
イナンナが優雅に手を叩いて、一瞬の静寂を作り出した。
「皆さん、お静かに」
微笑みながら立ち上がる。しかし、その目は冷たく光っていた。
「まず確認すべきは、この……お嬢さんが、本当に我々を統治する能力をお持ちかどうか、ではありませんか?」
「イナンナ様、それは——」
エンキドゥが慌てて止めようとするが、イナンナは片手で制した。
「だって、そうでしょう?」
わざとらしく肩を竦める。
「孤児院育ち、軍隊では最下級の二等兵、そして今は——」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「船乗りの、愛人ですか?」
ニーナの顔がピクリと動いた。
「政治の『せ』の字も知らない、礼儀作法も知らない、歴史も経済も軍事も、何一つご存じない」
イナンナが嘲るように続ける。
「こんな小娘に、この大帝国が治められるとでも?」
「血統は確かです!」
エンキドゥが必死に反論する。
「血統?」
イナンナが高らかに笑った。
「血統だけで国が治まるなら、どこの国も苦労はしませんわ」
(何これ……一体何を言い合ってるの……)
ニーナはげっそりとした表情を隠そうともしない。法石の産出量? 民主制への移行? 貿易収支? 何を言っているのか、まるで理解できない。
(今すぐワイン農家に帰りたい)
頭の中で、葡萄畑の光景が浮かぶ。朝露に濡れた葉、土の匂い、収穫の喜び。
(せめて雷牙号に戻りたい)
モニカと馬鹿話をして、トムやジャックと酒を飲んで、夕暮れの甲板で風を感じて……あの自由な日々が、今は夢のように遠い。
(このよくわからない年寄りたちの面倒を、私が見るの?)
頭痛がひどくなってきた。目の前で繰り広げられる政治談議は、まるで異国の言葉のようだ。
(どう考えても、優しいガランの隣で子供を産んで、普通のお母さんになる方が……)
マルタの作るシチューの味、リリーの無邪気な笑い声、暖炉の前での家族団欒。そんな平和な日々こそが、本当の幸せだったのに。
そんな時、イナンナが再び口を開いた。
「そういえば、興味深い話がありましてね」
芝居がかった仕草で、扇子を広げる。
「私の娘、セシリアが先日、ベル家の農園の祭りに参加したのですが」
ニーナの体が、ビクッと反応した。
「大変面白い光景を目撃したそうですよ」
イナンナが間を置く。まるで舞台女優のような、計算された間だった。
「なんでも、我らが新女帝候補様は——」
周囲の注目を確認してから、ゆっくりと続ける。
「ワイン農家の長男と、新婚旅行を楽しんでいらしたとか」
会議室がざわめきに包まれた。
「新婚旅行ですって?」
「まさか、本当に?」
「女帝候補が農夫と?」
イナンナが勝ち誇ったように続ける。
「村中に、夫婦として紹介されたそうですよ。『これからは二人で農園を盛り立てていきます』なんて、初々しい挨拶までなさって」
侮蔑的な笑い声があちこちから漏れる。
「田舎の農夫の嫁になるおつもりだったんですかねぇ」
「葡萄でも摘んで、ワインでも作って、子供でも産んで——そういう人生がお望みだったのかしら?」
「イナンナ!」
メルベルが怒鳴る。
「無礼であろう!」
「あら、事実を述べただけですわ」
イナンナが挑発的に肩を竦める。
「下々の、それも召使い農家の長男なんかと、身分もわきまえずに——」
声を一段と大きくする。
「こんな、教養もない、品位もない、志もない小娘が、千年の歴史を誇る我が帝国の女帝だなんて、笑止千万!」
周りの貴族たちも、次々と同調し始めた。
「確かに、血統だけでは……」
「農家の嫁が女帝とは、前代未聞だ」
「帝国の威信に関わる」
「諸外国の笑い者になるぞ」
イナンナが立ち上がり、ニーナを指差した。
「今からでも遅くありません。さっさと農園にお帰りなさい」
嘲笑を浮かべながら、とどめを刺す。
「泥にまみれて葡萄でも摘んで、一生土いじりでもしていなさい。その方が、よほどお似合いですわ」
その瞬間だった。
ニーナが無意識に右手を上げた。
「かっ!」
鋭い気合いとともに、凄まじい法力の念動力が炸裂した。
「きゃああああ!」
イナンナとその周辺の貴族たちが、まるで巨大な見えない手に掴まれたように、後方へ吹き飛ばされた。椅子が倒れ、書類が舞い散り、数人が壁に激突する。
「うるさいおばさんね」
ニーナの額に青筋が浮かび、口元が冷酷にニヤリと歪んだ。
もう一度、左手を上げる。
「や、やめ——」
イナンナが必死に防御の法力を展開するが——
バキッ!
まるで紙のようにあっさりと破られ、再び吹き飛ばされた。
「がはっ……!」
床に転がるイナンナ。鼻血が流れ、髪は乱れ、先ほどまでの優雅さは微塵も残っていない。
ニーナは震える両手を、目の前の巨大な会議テーブルに置いた。
パリパリパリパリ……
彼女の体から、稲妻のような紫電が走る。テーブルの表面に、幾何学模様の亀裂が蜘蛛の巣のように広がっていく。
「な、なんだこれは……」
全員が息を呑んで見守る中——
ビシッ!
強烈な炸裂音とともに、三百年の歴史を持つ巨大テーブルが歪み始めた。
メキメキメキ……
不気味な軋み音を立てながら、テーブルが真ん中から崩壊していく。まるで雪崩のように、轟音とともに粉々に砕け散った。
慌てて立ち上がろうとする貴族たちに、ニーナが冷たく手をかざす。
「座りなさい」
まるで絶対零度の声。
全員が顔を青ざめさせ、震えながら座り直した。
(なんて化け物だ……)
メルベルも内心で震え上がっていた。
(その気になれば、この場の全員を一瞬で黒焦げにできる)
しかし同時に、奇妙な安堵も感じていた。
(だが、この怪物にも弱点がある。ガラン・ベル——あの男一人を人質に取っている限り、制御は可能だ)
エンキドゥは恐怖に震えながらも、心の底では歓喜していた。
(これが、これこそが新女帝の力!)
この圧倒的な威容があれば、植民地の暴動など瞬く間に鎮圧できる。文字通りの世界帝国を築き上げることも夢ではない。
長い、重苦しい沈黙の後、ニーナがゆっくりと口を開いた。
「あなたたちが何を言おうが、何をしようが、もう勝手よ」
赤い瞳が、獲物を狙う蛇のように、一人一人を睨みつける。
「好きにしなさい。私には伝統も、しきたりも、格式も、何の興味もない」
そして、声を一段と低くした。
「ただし——」
全員が息を呑む。
「不始末があれば、今と同じことをする。次は、最後まで、ね」
崩壊した会議室が、墓場のように静まり返った。
ニーナはゆっくりと振り返る。
「メルベル」
「はっ」
メルベルが反射的に膝をつき、深々と頭を下げる。
「国内テロの完全粛清と、植民地暴動の徹底鎮圧をなさい」
「御意のままに」
震え声で答える。
ニーナは再び、怯える貴族たちを見渡した。
「みなさん」
凍りつく者たちに、最後通告を下す。
「兄・メルベルの指示に従い、速やかに仕事に取り掛かってください。何か問題があれば、私に直接言いなさい」
そして、冷酷に微笑んだ。
「失敗は、絶対に許しません」
誰も、何も言えなかった。
新しい時代が、恐怖と暴力とともに始まったのだった。




