7. 出る杭は打たれて突き抜ける
「盛り上がってきましたね!」
場の空気が暖まってきたことを喜ぶ声が聞こえた。久しぶりの女性の声だが……
「つまり貴様の脳内にある神経細胞の、先端にたまっていた神経伝達物質が放出されたんだよ。もっと言えば、タンパク質であるキネシンが、神経伝達物質などが入った小胞にくっついて微小管を2本足で歩き、神経細胞の中心から先端に向かって小胞を運び届けたことで、小胞の内部にある神経伝達物質を受容体が受け取り、盛り上がることができたのよ!」
つまってない。と俺は思った。
「えと、あなたは、悪役令嬢の、ケモミミの、BLの……」俺には覚えきれない名詞だ。
「ニューロン細胞よ。人体にある約40兆分の1個に過ぎない細胞の分際のウチが、老廃物のような貴様にお話できるとは光栄ね!」
情緒が不安定すぎる。
「待ってください!」一応、第三王女が著術を試みると、灰色のレールの上を大きな袋を運ぶ2本足のヒモが見えた。あれがキネシンか。
…ん? 他にも端っこの方に何か書いてある。……©?
「え、あのマークは?」
「先日観たテレビを参考に著術しましたので!」好奇心旺盛な第三王女が勉強熱心でよかった。
「とはいえウチら細胞が、盛り上がっているという幻影を観せているに過ぎないんだけどさ」
…ツンデレな細胞なのだろうか。
「幻影、ですか?」第三王女が意に介さず、不思議そうに聞いた。
「そうよ。あなたの意識は、約40兆個の細胞のうち、約1000億個の脳細胞が作り出している幻影。さらにその細胞内ではDNAを設計図にして作られた無数のタンパク質が10万種類以上、有能な機械のように連携して働いているわ」
そう言われて、第三王女はその流れを著術で描こうとしたが、まるで複雑すぎて理解できない路線図のようだった。もちろん©も忘れない。
「このように、小さな細胞が集まってできた身体の中で、細胞とタンパク質などが観せている幻影を、あなたは意識だと思っているだけ。実際はウチら細胞たちが生き延びるために、意識という幻影に身体を操作させているに過ぎないの!」
「…意識は生かされていると?」第三王女はもっと不思議そうに聞いた。
「ある意味ではそうね。あなたの意識はつまり、どこにも存在しない。細胞とタンパク質、さらにはそれを構成する原子や電子や陽子や素粒子や分子やその他、キリがない粒と波の要素が組み合わさって意識のようにふるまっている。それがあなた」
「…だとしても、断言はできないですよね。まだまだ解明されていない分野だと聞きますし。幻影であろうとなかろうと、とにかく俺は今ここに存在しています」俺も置いていかれるワケにはいかない。
「もちろんその通りよ。AIのように始点と終点が明確ではなく、貴様という意識は漠然と始まって茫然と終わるわ。しかし、意識という幻影を映写しているウチら細胞側から見れば、意識は尊重され過ぎているわね。この歯に挟まった食物残渣みたいな口臭の原因さん」
「…どういうことですか?」俺はひるまずに尋ねた。やっと本題に入ってきたのだろうか?
「外側から見れば確かに、物言わぬ脇役であるウチら細胞よりも、動いたり表現する意識の方が主役と思われがち。でも意識は一定ではなく、ウチら細胞やたんぱく質の変容によって、容易に変質する。意識とはその程度の幻影にすぎず、絶対視されたり、ましてや神格化されるモノではないわ。貴様のような糞尿言葉を垂れ流す肛門平滑筋にもわかってほしいんだけど」
「自意識過剰、みたいなことを言いたいのでしょうか?」
今度は第三王女が、いつものキラキラした瞳で尋ねた。彼女もこれまでの経験で動じない力を身につけたに違いない。
「自も他も意識過剰ってことね。実在する細胞よりも、実際はどこにも存在しない意識という現象を、ヒトは尊重しすぎているってこと。言うなれば、細胞という義務を果たすことと、意識という権利を行使することは、平等でないとね。義務を軽視して権利ばかり主張するのはバランスが悪いでしょう?」
「…意識にだけ思いやりが過ぎる、みたいな?」がんばれ、第三王女!
「存在さえ怪しいSNSの意見を神みたいにあがめたり。本当の被害者には泣き寝入りを強要しつつ、都合のいい時だけ被害者ぶる加害者とか。意識なんて本当はあやふやで、どうとでもなる表層に過ぎないの。
悪役令嬢とかモフミミとか女装BLとか魔法ナンチャラとかの属性は表層に過ぎなくて、実際はその内面で何が起きているかが重要でしょ? まぁ、表層も内面もどっちも大事ってことね」
しかし第三王女は、わかったようなわかってないような顔をしている。さらに細胞は言葉を重ねた。
「生命や人権を尊重するときに、意識と細胞は平等に尊重するってことね。平等を叫んでいるあなたは、ホルモンバランスの乱れによって叫ばされている可能性もあるしね」
「つまり生命を守ることは、心と身体を守ることって話ですね!」
そういうことだ! 理解できてうれしそうな第三王女に、俺も黙ってうなずいた。
「というワケで、ウチがコロッと再転生したら、記憶喪失のポジティブデブとして周囲にトラブルラヴを引き起こしたり、昭和の中堅レスラーとしてプロレス史を塗り替えたりする主人公の細胞に乗り換えたいと思ってるの。意識と女心は秋の空ね」
「意識がうつろいやすいのは男心もですけどね」まとめのつもりで俺も言った。
「ウチら細胞だけでなく、キネシンのように道具として働くタンパク質も大事ってことよ。このニセシンが!」
般若の形相で口汚く罵られた。男も女もないってさ。ある意味平等です。
「あ、行かれましたよ。細胞さん」
うっかり見てなかった。決して意識的にではなく。
「あの、私が細胞さんに生かされてるってことは、著術も細胞にさせられてるってことなんですかね?」第三王女が俺に尋ねた。
「いや。著術したい意識が、細胞を動かしてそのエネルギーをもらってるって逆のこともありますよ、きっと。持ちつ持たれるじゃないですかね」
「みんな、支え合って生きているんですね」
俺から細胞に言いたいことを、第三王女がまとめてくれた。
「…言葉が降り積もる夜ですね。今夜は」
もし言葉が見えるとしたら、この密室には落ち葉のようにたくさんの言葉が、足の踏み場もないほど積み重なっているに違いないが。そう口にしたのは……
つづく




