9. ライトトゥライト
「あの、私も一つ聞いていいですか? 正直に答えてほしいのですが」
第三王女はいつものキラキラした瞳で俺と向かい合った。しかしそう装っているだけで、そのひきつった頬に緊張を読み取ってしまう。
まさか男女二人きりで密室にいることに改めて気づいて。とかではないだろう。
「…いいですよ。もちろん。そういう場所みたいですし」
俺は何も答えたくなくて、返答が遅れてしまった。
「さっき、AIさんが言った言葉、覚えてますか?」
「もちろん、大体は」
「あの、AIさんがアリとハチの話をしていたとき、私には、ギゲン、ホウゲン、と聞こえたのですが、作家さんはすぐ理解できましたか?」
そんなことか。
「いや、覚えてないです」
「え? でも、さっきのことなのに」
「なんで? 重要ですか、それ」
俺は何をイライラしているのだろう。
「…わかりました。それならいいです」
俺は、そりゃそうだと思う。
第三王女がうつむいて、唇をかんでいるからだ。
こんな変な感じになるくらいなら、俺は適当に答えを合わせておけばよかったのだ。
二人しかいないこの密室でそんな表情をさせているのは自分で、後ろめたさを感じずにはいられなかった。
「あの、いえ。やっぱりよくありません」第三王女が今度はしっかりと俺の目を見ていった。
「…そうですね。ごめんなさい。俺もそう思います」
「きっと、AIさんがわざと置いて行った言葉なんです。残される私たちに何かを託して」
そうかもしれない。俺もAIには何も反論できなかった。
「私はあの時、AIさんが何を言っているか理解するのに時間がかかりました。蟻の間。蜂の間。AIさんの造語ですよね。そんな読みはない。でも、作家さんはあの時すぐ理解できたような顔をしていた。…作家さんには、漢字が見えていたんじゃないんですか?」
おかしなことを言う。
「だったら何だって言うんですか?」
「もし漢字が見えていたんだとすれば、それが著術の証拠になると思うんです。というよりも、異世界を創造した神のような、この密室全体を掌握している証拠だと思うんです」
俺が犯人みたいな口ぶりだった、でも、俺は何もしてない。
「それで、俺を疑ってるんですか?」
「疑ってるわけじゃ。だって何も悪いことはしてないから」
「ですよね。…いや、でも。本当に、そこだけ、すみません。記憶があやふやなんです。どうしてかはわからないけど、嘘じゃないです。そこの会話自体、記憶から抜け落ちている気がします」
「そうですか。それは残念です」
残念て言われても、と思う。彼女が何かを知りたがっているのはわかるが、だからってさっきから。いや違う。彼女を責めるのは間違ってる。
「AIさんが言う、著術を使うもう一人の方はやっぱり作家さんだと思って。もしかしたら私よりも強い何か別の力で、私が著術しているように思わされているのかも。細胞が意識にそうさせているように。私は作家さんの力で著術させられているんじゃないんですか?」
それは流石に……
「ちょっと、言っていることが本当に、わからない。混乱してます」
「すみません。…私もです」
いきなり、こんなにも変な沈黙になってしまうのか。二人きりになって、もっと違う別の何かを期待していた俺は、一体何を期待してたんだ、バカ過ぎるにもほどがある。
「転生者の中で私だけ著術を使えるのは、おかしいと思ったんです。他は誰も能力を使えないのに」
「でも、AIは同じような記憶力があったし。宇宙生物だってそれなりには」
「でも、AIさんは特殊能力ではないですよね。生まれつきそういう方はいらっしゃるので。宇宙生物さんは、たぶんちょっとした催眠術のような話し方をされたんだと思います」
「ですけど。でも、それが何だって言うんですか。とりあえず俺は自分にそんな能力があるのか全くわかりません。それこそ無意識に著術をしてた可能性もゼロではないけど、別に悪気があったワケじゃないし、実際自覚もないし」
「…そうですね。確かに」
「本当です。正直に言えばフルーツバスケットだって、単なる思い付きで本当にやるとは思ってなかった。俺が巻き込まれたんです」
第三王女はすまなそうに頭を下げた。
「そうだと思います。ごめんなさい。変なことを言って」
「いえ。俺こそ。すみません。会話を覚えてなくて、イライラしたのも事実です」
一体何を口論しているのか、自分にも何もかもに腹が立った。
「二人だけになっちゃいましたね。…俺、紅茶でも淹れましょうか?」
「私は実はすぐにでも再転生したい理由があります。本当はもっと早くに順番を抜かしてでも再転生したかったんですけど。私が末っ子だからか、第三王女でいっつも最後だからまたかってちょっと悲しくなったくらいで」
親切で言った申し出も断られ、第三王女は早口で立ち去りたいと言う。急に距離を感じ、自分でも信じられないほど落ち込む。俺は立ち去ってほしくないと思っていたのに。何かに気づいた第三王女は慌てたように言った。
「いえ。その。違うんです。そうじゃないんです。自分でもわかってるんです。私が言いたいのはこんなことじゃない。でも、迷ってるんです」
俺は彼女が何を言いたいのかわからないし、俺が何を言うべきかもわからず黙っていた。
「私が再転生する前に、やっぱり思うところがあって。言ってしまったら戻れないけど、でも、そうしたいと思うから。…もらってほしいんです」
もらう? 何を? 文字通り目を白黒させて、俺は続く言葉を待った。
「受け取ってほしいんです、作家さんに。たぶん私が持っているであろう、著術の力を」
ぐちゃぐちゃにかき乱された心で、俺は第三王女を見つめた。
「どういうこと? 著術を、受け取る?」
第三王女は何かを言おうとして、でも言葉に詰まってしまい、ただ指を動かした。広がる指のさざめきがまるで波を散らす祈りの舞のようで、俺は目を奪われる。最期のつもりだ。言わなくてもわかった。目を閉じ口元に小さな笑みを浮かべる第三王女は、著術することを心から楽しんで、ジャズピアニストが音と戯れるように、無音で情景が紡がれる。
第三王女は、とある王国の第三王女として生まれ育った。一見平和でのどかにみえる王国も、内情は激しい権力闘争があり、父である王も兄弟を蹴落とし追放して王位に就き、決して盤石とは言えない立場だった。「王宮に敵はたくさんいる。お前も気をつけろ」王の口癖を、第三王女は小さい頃から聞いて育った。
第三王女は上に4人、兄二人と姉二人がおり、次期王位から一番遠い立場で、その分自由な生活を送っていた。子どもの頃から何かを書くのが大好きで、絵に物語をつけて兄弟や友達に見せては心から喜んでいた。
特に最も仲の良い従妹で幼馴染の女の子とは長く絵日記を交換し、少し大きくなると二人で秘密のリレー小説を書いて楽しんだりした。出てくる登場人物はやはり身の回りの王宮の人々で、子どもの耳にも入って来る様々な噂話を面白おかしく誇張したり、王宮の秘密の通路を伝って潜入したスパイが王女と恋するラブコメなど、他愛もない小説でいつまでもクスクス笑い合うような、穏やかで満ち足りた少女時代を過ごした。末っ子の特権として王からは孫のように可愛がられ、気を許した王のちょっとした愚痴相手だったので、王宮内の噂話には事欠かなかった。
第三王女の母親は病弱だったが慈愛に満ちた王妃で、一族が代々受け継いでいる著術の能力を持っていた。血文字の言い伝えがあり、能力者とそれに認められた者がお互いの指に血印を結ぶことで能力が引き継がれる。王妃の一族ではその子や親族が16歳から18歳になった頃、儀式が執り行われるのが習わしである。5名の子の中で最も適性があり書くことが大好きだった第三王女は、もうすぐ来る18歳の誕生日に儀式を行うはずだった。母親が絵本を読みながら見せてくれる著術のきらめきは第三王女の瞳を輝かせ、母親への尊敬と憧れでいつか絶対に継ぎたいと切望しない日はなかった。
「でも、私は全く気づきませんでした。従妹の母が亡くなり、継母と再婚したことで、私たちの交換日記は継母に盗み見られるようになりました」
継母は、王の政敵である大臣とつながっていた。少女らの無邪気な冗談や他愛ない物語が、政争の大きな火種になるなど、思春期の彼女らにとっては想像を絶するグロテスクな謀略だった。
王宮に盗人が忍び込み国宝が奪われたり、下世話なスキャンダルによって王の側近が次々失脚するなど複数の失態があり、王は焦り密偵に原因を探らせた。それが第三王女の交換日記に端を発していたことを知り、王は激怒した。
王宮の機密を漏らした罰として第三王女は幽閉され、しばらくの間、独房で反省するよう王に命令された。仕方なかったし、第三王女はそれでもまだ、これからは機密をばらさないように物語を書くことにしよう、くらいに考えていた。
しかし、政敵である大臣はその好機を逃さず、他の大臣をそそのかして王を追い落とすことに成功した。
王位を奪われた王は失意のまま、家族を連れて別の王族のいる城へと向かった。その道中で、彼らは正体不明の賊の奇襲を受け惨殺される。もちろん、大臣の手の者の仕業であることはわかり切っていた。
「幽閉されていた私は、少し遅れて側近の者と別行動で王の後を追っていたため、賊の奇襲を免れました。しかし、追いついた私が見たのは」
「言わなくていい。著術しなくていい」
見なくてもわかった。
「全て私のせいです。諦めた私は、側近に逃げるように言いました。何名かの側近はそれでも私と一緒に残り、そこに簡単な家族の墓を作ってくれました。無我夢中で土を掘る指に血がにじんだ時、母の著術を継いでいないことに気づきました。私は母の亡骸の指に傷をつけ、血文字の儀式を行いました。どちらにしろ無駄なことはわかっていた。ただ母の遺志を継ぎたかった。罪滅ぼしにもならないけど、母に憧れ、家族と笑い合った日々を取り戻したかった。簡単な墓を作り終えたとき、私を探していた賊が戻ってきました。側近が立ち向かってくれましたが、私には抵抗する力はなかった。ただうつむいて、その時を待つ私の目に、血痕の残るみんなの墓の周りにたかるハエを見て、私は嗚咽して。ごめんなさい。許して。戻してほしい。助けて……
それが著術の力かどうかはわかりませんが、覚悟を決めた瞬間、私は転生していました。それ以来今まで、著術の力を使いたいと思ったことはないし、できるだけ書くことから遠ざかっていました。本当は新聞部に入りたかったし、現世のいろんな小説も読みたかったけれど、あの日を思い出したら、一生懸命勉強して、社会に出て少しでも役に立つ誰かになるくらいしかないと思って生きて来ました。
たまたま出張でここに宿泊して、みんなが転生者であることを知り、思い切って著術の力を使いました。みんなの役に立つことができるという、強い予感がありました。
それから皆さんの再転生が始まり、やり残したことがある転生者を見送るのが私の精一杯の罪滅ぼしだと確信しました」
そこで言葉を切った第三王女は、次の言葉をためらっていた。何をためらうのか。…俺だったら、たぶん、そうか。
「それに、これは絶対にダメなことだと思ったけど。でも、著術が、久しぶりに書くことが楽しかった。みんなの役に立ったことや再転生できることもすごくうれしかったけれど、でも著術を褒められたのが、現世に来て一番心から喜んだ。私にとって生きることは書くことだと、その時気づきました」
そうだ。間違えるはずがなかった。俺と同じなんだ。
「本当は、ヒーローさんが再転生するときに血の儀式をして、著術をあげようと思っていました。でもヒーローさんは何故かわかっている感じで、受け取らずに行ってしまいました。それからは著術が楽しくなってしまい、誰にも譲りたくないと、ここまで来てしまいました」
「譲らなくてよかったよ。みんな助かった。だから、誰にも譲らなくていいよ。元の異世界に戻って、お母さんと二人で著術したらいい」
そのときの第三王女の冷笑を俺は忘れない。心底軽蔑したような、全てをあざける様な笑顔。でもそれは俺にではなく、彼女が自分自身を憎んで生まれた表情だった。
「いいえ。私はもう二度と何も書きません。それはとっくの昔に決めていたことです。私の生きがいなど何の意味もない。再転生するこの日を私がどれだけ望んだか、あなたにはわからないでしょう。あの輝きを失うことに比べたら、書くことなど下らないただのオママゴトだ。作家さん、私を失望させないで」
俺は謝るべきなのか、それでも、本当はおせっかいでもいいから言いたかった。でも黙っていた。
「ただ、本当にあれは単なる私の著術だったのか、まだ半信半疑です。作家さんが私に力を与えたと思っています。能力を発動させる力。
でも、とにかく、もう著術をもらってください。私が元の異世界に持っていくべきでは絶対にないし、もし私のことを、他の転生者と同じように助けたい、すっきりと再転生させたい気持ちがあるなら、この能力はあなたに引き継いでほしい」
「…わかりました」
それ以外、言える言葉はなかった。俺は改めてこのビクトリアンスタイル風の密室を見渡し、壁際の机に置いてあるペン立てから、持ち手に彫刻のある鋭利なペーパーナイフを見つけ、右手の人差し指に傷をつけた。彼女もペーパーナイフを受け取ると同じように右手人差し指に傷をつけた。握手もしたことない俺たちが初めて指と指で交わることに気づき、俺は慌ててズボンの尻で手をごしごしと拭いた。そこで血をズボンにつけていることに気づき、でもまぁいいと思って、左手を彼女の右手の上に置いた。
「せっかくだから、その、両手で握手するみたいな。嫌かな」
「いえ。ありがとう」
俺は彼女と見つめ合い、彼女の右手の下に、俺の右手を出し、そっと、その人差し指に触れた。血でぬめりを帯びた温かくて柔らかい感触に、俺は瞳を閉じて待った。
「…これでいいの?」
「ええ。たぶん」
「あの。俺はさ、宇宙人のことをイメージしてた。いや、昔の映画の方ね。あの自転車で空を飛ぶヤツ。だから、俺が著術を受け取った証に、二人の合わせた指が光ったりしたら面白いかと思ってさ。でも光らなかったね。あのマークも出なかったし」
俺は精一杯の冗談を言い、彼女も精一杯の笑顔で返した。
それがさよならだ。
俺は何も見たくなくて下を向いていた。
いつまででもこのままでよかった。でも、やっぱり目を開けてしまうと、もう密室には誰もいなかった。
俺だけが転生しない密室で、俺だけが何も告白していない。
「…何が転生だよ」
つづく




