小説を書く理由
最近、小説投稿サイトで「小説を書く理由」について書いている記事をよく見かけます。
小説を書くのは、小説家になるため。
小説家になるにはどうしたらいいのか。
しかし、その成功確率は万に一つ。
小説家になれなかったら、その行為は何なのか、ただの無駄なのか?
◆ ◆ ◆
これは僕の祖母の場合、という話です。
北陸の地方都市の生まれで、才女ということで地元では少し有名だったらしいのですが、のちに結婚し、無名の一人の母親として、四人の子どもを育てて、人生を終えていきました。
祖母との接点は、僕は多くはなかったです。祖母は精神に問題があるということで、晩年は人から避けられ、小さな町の一軒家でたいがい一人で暮らしていました。
高度成長期に都心のベッドタウンに出てきた親元で生まれ育った僕とは、距離もずいぶんへだてられていました。
でも、僕が幼少の頃、たまたま一度だけ、二人で長く話をしたことがありました。
二人でデザートを食べたあと、祖母は大切そうに和紙の表装のノートを僕に示して。
「あんた、これわかる?」
「ノート」
「そりゃあそうだけど、ノートは入れ物でしょ。コップと同じ。大切なのはなにをいれるか」
「うん」
「じゃあ、私はここに、なにを入れているでしょうか」
「日記?」
「そうね、それも、はずれじゃない。でも、それだけではない」
「なに?」
「私はね、ここに、小説を書いている。わかる、小説って?」
「おはなし?」
「そうね」
「面白いこと?」
「おはなしというのは、面白いとは限らない。悲しかったり、美しかったりするものだから」
「……」
「まあ、あんたがもう少し大きくなったら、読んであげてもいいけどね。まださすがに早いだろうね。5歳だっけ?」
僕は指を四本立てて示す。
「そっか。でも、あんたもかしこいから、きっとわかるようになるよ。小説って、素晴らしいことなのだよ」
「いいこと?」
「どう説明したらいいかな。ラジオのチューニングってわかる?」
デジタルではなくて、つまみをまわして周波数を合わせていくやつだ。きゅーん、ぶぶぶ、ぎー、とか音がして、ピントが合うと、人の声や音楽が流れ始める。
「あんなかんじ」
「……え?」
「心を調整して合わせていくと、ないはずの声が聞こえ始めるの」
「うん」
「それだけじゃないのよ。本当にうまくチューニングが合うとね、天使が見えるの」
「なに、天使って」
「ちょうちょみたいな、ふわっとした、小さななにかで、暗いところでも、ぼんやり光っている」
「夜に見えるの?」
「そうね、そうかもしれない。でも、かならずしも夜ってきまっているわけではないはずだけど。明け方のときもあるし、夕方のときもある」
「昼は?」
「昼の天使か。私は、昼は忙しすぎてそんなこと考える余裕がなかった。正直わからないけど、不可能じゃないとは思う。おまえは昼のほうがいい?」
「夜は、怖いから」
祖母は素直に笑った。少し美しいくらいに。
「夜は、可能性が多いからね。いろんな怖い思いもしがちだけれど、だからこそ、天使にも会いやすいんだと思う」
「天使って、なにかしてくれるの?」
「どうかね。頼んでみれば、いろいろしてくれるかもしれない。魔法みたいなね。でも、そういう気持ちになったことは、私はないね。たのんで、できなくて消えられても困るから。ただ、私が小説を書くときには、そばにいてくれて、そっと光を届けてくれる。その明るさだけで文字が見えるということはないけど、その光があると、いつもの平凡な自分とはちがう、特別な言葉を書くことができるのさ」
「いいことだね」
「信じるかい?」
僕は意外な顔をした。祖母が嘘を言うなどとは思っていなかったから。ただ、あらためて問われてみると、子どもながらに、ありえないことだ、とは思った。
「それ、チューニングがうまくいったときだけ?」
「そう、うまくいったときだけ。見てみたい?」
「見れるの?」
「あんたでも、見れると思う。でも、私の天使は、あんたには見えないし、あんたの天使は、私には見えない」
「自分でチューニングするんだね」
「そう。いろいろやってみるといい。おまえの人生は、まだ始まったばかりで長いんだから」
「うん」
その後、祖母はしみじみと言った。
「天使のこと、正直に誰かに言うの、初めてだよ。不思議なものだね。あんたのお父さんなんか、私を精神科に連れて行って、入院させたがるんだ。理解してもらえない。おたがいつらい。でもね、そうそう、これもひとつ、初めてのこと、言っておこうか」
「なに?」
「私は、ずっと小説家になりたかった。だから、ノートを持ち歩いて、今でも書いている。これが世に出ることは、期待しているけれど、もう難しということもなんとなくわかっている。小説家の先生なんてね、そんなふうになれればよかった。なにがそれを可能にして、なにが足りないのかは、私にはわかっていないのだと思う。ただ、世間がなにを認め、なにを認めないとしても、私は、小説を書いているんだ」
「うん」
「作家なんだよ」
「うん」
「どうして作家か、わかる?」
僕は首を振った。
「私の天使がいるから」
「自分だけの小説家?」
「例えば、私が死んでしまったら、もう自分だけの小説家か、本が売れている小説家かは、関係ないだろ?」
「うん」
「でも、天使がいるか、いないかは、まったくちがう。天使は、死ぬときも、死んでからも、私とともにいる」
「それすごいね」
「もちろん本が売れる小説家になれて、しかも天使がいるというなら一番だけど、もしどちらかを選べということなら、私はまよわず天使の方を選ぶよ」
「うん」
「おまえだったら、どうする? 小説家の先生になって、お金が入って、有名になることと、そっと心のチューニングを整えると美しい天使が見えることと、どちらがいい?」
「天使がいい」
僕は、まよわずに答えた。
「じゃあ、おまえも精神科に行かされないように気をつけないとね」
「わかった」
「私の天使を、おまえに、わけてあげようか?」
「え……自分の天使じゃないと見えないんでしょ?」
「そうだったね」
◆ ◆ ◆
祖母は、無名の一人の母親として普通に暮らし、四人の子どもを育てて、人生を終えていきました。彼女が書き残したものは、精神疾患患者の書き残したものとして、死後にすべて処分されたようです。あえて外には知らせないようにして。僕もたまたま目にした数行を読んだだけでした。
いま、あの人の書いたものは、この地球上に、なにも残っていません。
ノートの1ページも。
無名のまま生き、無名のまま亡くなりました。
ただ、あの人は、僕に教えてくれたのです。
小説を書く理由を。
それはとても正直で、品がよくて、かすかな光をまとった、美しいなにかでした。
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