第6話 知恵と呪いの応用
グルルルル……。
ヘルハウンドは低い唸り声を上げながら、爛々と輝く赤い目でノアを射抜くように見据えている。
その全身から立ち上る黒い瘴気が周囲の空気を淀ませ、不気味な圧迫感を生み出していた。
一歩、また一歩とじりじり距離を詰めてくる。
「……なるほど。瘴気自体に弱毒性、か。厄介だな」
ノアは冷静に相手を分析しながら、革鞄から数種類のアイテムを取り出し、ベルトのポーチに素早く仕分けた。
一つは閃光弾、一つは悪臭を放つ煙幕弾、そしてもう一つは彼が試作した『ほんの少しだけ未来が見えるが、見た未来に必ず頭痛がついてくる呪いの小鏡』だ。
もっとも、これは戦闘中に悠長に覗き込んでいる暇はなさそうだが。
瞬間。
ガウッ!!
ヘルハウンドが咆哮と共に黒い影となってノアに襲いかかった。
鋭い爪が薙ぎ払うように迫る。
「遅い」
ノアは最小限の動きでそれをかわし、懐から取り出した小さな革袋をヘルハウンドの顔面めがけて投げつけた。
パンッ! と乾いた音を立てて革袋が破裂し、中から強烈な刺激性の粉末が散乱する。
「クギャイイィン!!」
ヘルハウンドは顔を押さえて甲高い悲鳴を上げた。
目潰しと嗅覚麻痺を同時に引き起こす、ノア特製の「悪魔のくしゃみ粉」だ。
だが、上位種だけあってすぐに体勢を立て直す。
怒りに燃える赤い目が的を失って周囲を激しく見回した。
「……よし、効果はあるな」
ノアはその隙に廃墟の崩れかけた壁の影に身を隠していた。
(こいつの主な攻撃は爪と牙による直接攻撃、それとあの瘴気。素早いが動きは直線的だ)
「グルアアアア!!」
怒り狂ったヘルハウンドが手当たり次第に周囲の瓦礫に噛みつき、爪を叩きつけている。
ノアは壁の隙間からそっと様子を窺い、次の手を思考する。
(あの『怨嗟を宿す獣骨』……あれ自体からも相当な負の魔力が放たれている。ヘルハウンドはあれに引き寄せられ守護しているのか、あるいはあれから力を得ているのか……)
ノアはポーチから粘着性の液体が入ったガラス瓶を取り出した。
(まずはあの動きを鈍らせる)
ヘルハウンドが再びノアの気配を察知し突進してくる。
ノアはそれを冷静に見据え、タイミングを計ってガラス瓶をヘルハウンドの足元に投げつけた。
パシャァッ!
ガラス瓶が割れ、中のネバネバとした液体が広範囲に飛び散る。
それは強力な錬金術製の接着剤だ。
「グ、グゥ……!?」
突進してきたヘルハウンドの四肢が、地面に張り付いたかのように動きを鈍らせる。まるで蟻地獄に足を取られたかのようだ。
もがけばもがくほど足元の瓦礫や土砂が絡みつき、さらに動きを封じていく。
「ガウウウウウッ!!」
ヘルハウンドは必死に抵抗し、その怪力で地面の一部を引き剥がしながらも、ノアに向かって強引に進もうとする。
だが先ほどまでの俊敏さは見る影もない。
「仕上げだ」
ノアは懐から最後に取り出したのは、掌サイズの黒い金属塊。表面には複雑な幾何学模様が刻まれている。
「試作品ナンバー7、『束縛の呪詛塊』……起動」
彼が小声で呟くと、金属塊がブゥンと低い唸りを上げ表面の模様が淡く発光し始めた。
それをノアはヘルハウンドの眉間に向かって正確に投げつける。
カッ!
金属塊はヘルハウンドの額に命中すると、まるで吸盤のように張り付き、次の瞬間そこから無数の黒い鎖のような影が伸びてヘルハウンドの全身を瞬く間に覆い尽くした。
「ギイイイイイイイッ!!」
ヘルハウンドは断末魔のような悲鳴を上げ、激しく身を捩るが、黒い影の鎖はますます強くその体を締め上げていく。やがて、黒い瘴気も霧散し、巨体はピクリとも動かなくなった。完全に無力化されたのだ。
「ふぅ……。試作品にしては上出来か。ただ魔力消費が思ったより大きいな。改良の余地あり、と」
ノアは肩の力を抜き、額の汗を手の甲で拭った。
そして動かなくなったヘルハウンドには目もくれず祭壇の上の『怨嗟を宿す獣骨』へと近づき、それを丁寧に革袋にしまう。
骨はズシリと重く、握る手にまでその怨念が伝わってくるようだった。
「これでボルガロスの斧もより『面白く』なるだろう」
目的の素材を手に入れ、ノアは早々に廃墟を後にした。
帰り道は特に何事も起こらなかった。
工房に戻り、蹴破られた扉の代わりに立てかけておいた木の板をどかそうとしたノアは、ふと足を止めた。
工房の入り口。その薄暗い戸口に見慣れぬ人影が立っている。
ノアの記憶にはない、だが、どこか無視できない気配を纏った、細身の影だった。
「……誰だ?」
ノアの眉間に深い皺が刻まれた。
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