第4話 工房の日常とノアの独白(過去の断片1)
「……フン。せいぜいその『血染めの戦斧』とやらに喰われねぇよう、気張るんだな、ミノタウロス」
ボルガロスは、未だ興奮冷めやらぬといった様子で鼻息を荒くし、蹴破ったままの工房の入り口からドカドカと出て行った。
その背中は、新たな力への期待と、未知なる呪いへのわずかな恐怖が入り混じっているように見えた。
最後に「完成したら教えろよ! すぐに取りに来る!」 という大声が遠ざかっていく。
「……やれやれだ」
ノアは一人ごちると、ボルガロスが置いていった、例の血のように赤い液体『ドラゴンの憤怒』が入った小瓶を手に取った。
そして、工房の奥にある鍛冶場へと向かう。
そこは、彼の錬金術工房でありながら、高度な鍛冶設備も整えられている、ノアの秘密の聖域だった。
カン、カン、カン……!
静まり返った工房に、規則正しい金属音が響き始める。
ノアはまず、ボルガロスが普段使っているという巨大な戦斧――その形状とバランスを入念に確認した後、それを一度分解し、刃の部分だけを炉の炎で赤々と熱した。
飛び散る火花。
革のエプロンと分厚い手袋を身に着けたノアの額には、すぐに汗が滲む。
(……馬鹿の一つ覚えのように、ただデカくて重いだけの斧だ)
だが、その単純な構造こそが、強力な呪いを付与するには都合がいい。
ノアは赤熱した斧の刃を金床に乗せ、的確な力加減で槌を振るい始める。
金属の組成を変化させ、呪いの触媒である『ドラゴンの憤怒』が馴染みやすいように、刃の密度を調整していく。
熟練の技だ。
キィン、コォン……。
金属が叩かれ、形を変えていく音。
それはノアにとって、心地よいリズムでもあった。
ただひたすらに、素材と向き合い、自らの技術を注ぎ込む。
その瞬間だけは、忌々しい過去を忘れられる――はずだった。
(……宮廷の連中は、『呪い』をただ忌避するだけだったな)
ふと、脳裏に過去の光景がよぎる。
華やかだが、どこか空虚な王宮の錬金術工房。
そこにいたのは、進歩を恐れ、旧態依然とした「祝福」や「聖遺物」の研究にのみ固執する者たち。
『ノア君、君の研究は危険すぎる』
『呪いなどという禍々しい力に手を染めるなど、正気の沙汰ではない』
『これは警告だ。これ以上、その不敬な研究を続けるというのなら……』
(力の根源も、その制御の術も、理解しようともせずに……ただ恐れ、遠ざける。愚かな連中だ)
カァン!!
ひときわ強く槌が振り下ろされ、火花が激しく飛び散った。
ノアの灰色の瞳の奥に、冷たい怒りの炎が揺らめく。
追放される間際、侮蔑と嘲笑に満ちた視線の中で浴びせられた、屈辱的な言葉の数々。
それらが、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
(俺の技術は、あの場所では理解されなかった……いや、理解するだけの度量が、奴らにはなかっただけだ)
だが、ここには、その力を求める者がいる。
たとえそれが、人間社会から敵視される魔王軍の幹部であろうとも。
ノアは、自らの技術を必要とし、その価値をたとえ歪んだ形であれ認める者のために、ただ黙々と最高の仕事をするだけだ。
槌を置いたノアは、次に『ドラゴンの憤怒』の小瓶を手に取った。
慎重に蓋を開け、中のどろりとした赤い液体を、未だ熱を帯びている斧の刃にゆっくりと垂らしていく。
ジュウウウゥゥ……ッ!
赤い液体が刃に触れた瞬間、まるで生きているかのように脈動し、蒸気を上げながら刃の金属の奥深くまで染み込んでいく。
工房内に、鉄の焼ける匂いと、甘ったるい腐臭、そして新たに血のような生臭さが混じり合った、異様な香りが満ち始めた。
ノアはその変化を注意深く観察しながら、今度は銀の小刀を手に取り、刃の表面に複雑な呪印を刻み始めた。
それは古代の文字であり、魔力を制御し、増幅させるための回路。
一筋一筋、寸分の狂いもなく、冷徹なまでに正確な手つきで刻まれていく。
――その時だった。
ブワァッ……!
刻まれた呪印が、まるで呼吸を始めたかのように、鈍い赤黒い光を明滅させ始めたのだ。
戦斧全体から、禍々しいオーラがゆらりと立ち上る。
それは濃密な魔力の奔流であり、同時に、飢えた獣のような、底知れぬ渇望の気配を漂わせていた。
工房の隅に積み上げられていたガラクタが、カタカタと微かに震える。
ノアは、その光景を無表情に見つめていた。
これから数日、この戦斧はノアの魔力と呪詛を吸い続け、ボルガロスの血と魂を喰らうための牙を研ぎ澄ませていくことになる。
「……いい傾向だ」
ポツリと、ノアは呟いた。
その口元には、先ほどボルガロスに見せたものとはまた違う、純粋な探求者の、あるいは禁忌を操る者の、満足げな笑みが浮かんでいた。
工房の薄闇の中で、赤黒いオーラはますますその濃度を増していく。
最初の「呪いの装備」が、産声を上げようとしていた。