第25話 まだ見ぬ世界へ
翌日、5時55分。
成田国際空港、第二ターミナル、出発ロビー。
この時のために、僕はわざわざ前日に成田入りして、ホテルに泊まったのだった。
彼女は……いた。
長く下した髪を背中で無造作に束ね、ラフなGジャン姿に、緑色のカーゴパンツを履いていた。
下はライディングブーツではないが、それっぽいライディングシューズに見えた。
だが、瓶底みたいな眼鏡はかけていなかった。
荷物もまた、巨大なスーツケースではなく、バックパックのようなリュックが一つ。
ほとんど人気がない、早朝の出発ロビーの椅子にちょこんと座って、物憂げにスマホをいじっていた。
どこか、違和感がある格好でもあったが、とにかく彼女がいたことに僕は、ホッとしていた。
同時に、怒りとも悲しみとも判別がつかない感情を、彼女にぶつけていた。
「袋小路さん!」
早朝の空港の静寂を打ち破るように、響き渡る僕の大きな声に、彼女は体をビクっと反応させ、こちらを見て、目を丸くしていた。
「瀬崎くん……」
足早に近づいて、僕は思わず彼女の肩を掴んで、正面から取っ組み合いでもするかのような勢いで迫った。
「一体、どういうつもりですか、あなたは。自分勝手ですよ。こんなことをして、どれだけ心配をかけてると思ってるんですか?」
「ご、ごめんなさい」
「事情を説明してもらいましょうか?」
「瀬崎くん、痛い」
思わず指に力が入って、思い切り彼女の肩に力を入れていたらしい。僕は慌てて彼女の肩から手を離した。
「すみません」
謝りながら、まずは彼女を落ち着かせるため、彼女の隣の椅子に座る。
横に座る彼女は、もう今にも泣き出しそうな表情をしていた。怖がらせてしまったようで、少し反省する。
仕方がないから、近くの自販機で清涼飲料水を買ってきて、彼女に手渡した。
「ありがとう」
ようやく落ち着きを取り戻したかのような彼女に先を促す。
「何も言わずに旅立とうとしたのは、悪かったと思ってる。けど」
「けど?」
「うん。あなたには知られたくなかった。私は世界に旅立つけど、その先に何があるかわからない。もう二度と日本に戻れないかもしれないし、途中で大怪我をしてしまうかもしれない。だから……」
「それだけですか?」
「えっ」
「それだけですか? って聞いてるんです」
「いや、あの……。しゃべったら絶対止められると思って……」
いつにもなく、しどろもどろになっている彼女をこれ以上、責めて困らせるのは本意ではないが、僕はさらに突っ込むことにした。
「あのですねえ、袋小路さん」
今度は、ゆっくりと彼女の両肩に手をやり、僕は諭すように呟いた。
「はい」
どこか神妙な面持ちの彼女に声をかける。
「そんなの人間、誰でも同じでしょ」
「えっ」
「だって、そうでしょ。明日、大地震が来て、死ぬかもしれない。明日、会社が潰れて路頭に迷うかもしれない。そんな先のこと誰だってわからないんですよ。だからみんな毎日を精一杯生きてるんです」
「……」
「それに、僕のことを見くびりすぎです」
僕は前から感じてはいた。どこか、不器用な、というか、人と違う子だとは思っていたが、まさかこれほど変な方向に進む子だとは僕は思っていなかった。ある意味、一度、思い込んだら、どこまでも一直線のような、変なベクトルの一途さがこの子にはある。
だが、恐らくだが、悪気があったわけではないことは推測できた。
単に、不器用で、心配をかけさせたくないのか、それとも単純に「別れ」の言葉を切り出すのが怖かっただけかもしれない。
いや、それ以前にそもそも彼女は親友の西部るみかに、わざわざ出発日と出発便のことを教えていた。
つまり、その情報が西部さんから僕に流れることを期待し、僕を試したのかもしれない。
まあ、非常に回りくどい作戦ではあったが、その意味では彼女の作戦は成功したとも言える。
僕は改めてそんなことを考えると、途端にたまらなく彼女のことが愛おしく思えてきたのだ。だからこそ、溜め込んでいた思いを吐き出すことにした。
「袋小路さん。一度しか言いませんよ」
「何?」
僕は、真正面から彼女を見つめ、そして、思いきって言い切った。
「僕はね。袋小路さんのことが好きなんです。大好きなんです」
「えっ、えっ!」
さすがに驚いて、目を丸くして動けないでいる彼女に、僕は返事を聞くこともなく、畳みかけた。
「だから、僕が言いたいことは一つだけです。絶対、無事に戻ってきて下さい」
「……うん」
そう、か細い声で、呟くと同時に、彼女は僕の腰に手を回してきたのだった。その頬から薄い涙が伝っていた。僕もまた彼女の頭を抱くように手を回すが拒絶はされなかった。
答えは聞くまでもないようなものだが、彼女は彼女なりに思うところがあったのかもしれない。
目に涙を浮かべながらも、僕に泣き笑いのような笑顔を見せた。
「私も……。私も瀬崎くんのことが好きだよ。だから、あなたにだけは、知られたくなかった」
「まったく本当に不器用な人ですね。普通、逆でしょ。好きだからこそ、大事な人には知らせたいんじゃないんですか?」
「?」
頭にクエスチョンマークを浮かべている彼女を放っておいて、しかしながら、両想いであることを確認できた僕は、
「ああ、もう。まあ、いいです。本当は西部さんから、止めてくれって言われてましたけど。それで、どこに行くつもりですか?」
「うん。香港からユーラシア大陸を横断して、ヨーロッパ。そこからアメリカ大陸に渡って、横断して、ハワイ経由で、ついでにニュージーランドとオーストラリアまで」
途端に目を輝かせる彼女。本当に「好き」なことには一途な人だった。
「えっ。マジで。世界一周?」
「うん。まあ、そうなるかな」
「袋小路さんは、可愛いんだから、襲われないか心配なんだけど」
もういつの間にか、僕は敬語ではなくなっていた。
可愛いという一言に、反応して照れ笑いを見せる彼女だが、返ってきた答えは力強い物だった。
「大丈夫。密かに護身術も勉強してたから」
知らなかった。詳しく聞くと、彼女、密かにだいぶ前から世界に行くことを考えていたらしく、道場に通って、一通りの護身術まで学んでいたという。
つまり、元々、計画的なことだったらしい。
それにしては、突拍子もないというか、相変わらず無茶苦茶なことをやる人だと、僕は思うのだが。
ある意味、本当に「先が読めない」人なのだ、彼女は。その意味では、面白いけど、僕はこれからも振り回されるだろう。
「次、日本に帰ってくるのはいつ?」
「うん。12月頃かな」
「10か月か。長いな」
「メッセージ送るから」
「それでも寂しいなあ。袋小路さんは、可愛いから、ナンパされそうだし」
「大丈夫だよ」
「でもなあ。可愛いしなあ」
「もう、可愛い、可愛いって連発しないで」
と、照れたように言いながらも彼女は嬉しそうに目を細めていた。
なんだかんだで、僕たちは、抱き合いながら最後の別れを惜しむのだった。
そんなこんなで、やがてチェックインから搭乗ゲートへと向かう彼女を、最後に見送ることになった。
聞くと、バイクはすでに、航送、つまり船であらかじめ送ったという。
何故、Vストローム250SXを置いていくのか、と言うと、彼女に言わせれば、
「SXはいいバイクだけど、本来、ガチなオフロードには向かないバイクなんだ。だから、世界のオフロードに適したバイクを用意した。父がだけど」
とのこと。彼女の愛車は実家に置いてあると言う。
代わりに世界を股にかけて乗るバイクとは。
スズキ DR-Z400S。400ccのオフロードバイクだった。彼女は僕に話したことがなかったが、一応、大型二輪免許も持っているらしい。普段、乗らないから僕は気づいてすらいなかったが。
最後の出発前。
僕は、彼女と向き合って、一言だけ告げる。
「目を閉じて」
と。
出発ロビーの端っこ。人目につかない柱の陰で、僕たちはそっと唇を重ねたのだった。
袋小路さんは、きっと戻ってくるはず。
僕はそう信じて、彼女を素直に送り出すことを決めた。
西部さんには悪いことをしたと思うけど、謝って説明すればきっとわかってくれるだろう。
そしてきっと、彼女は、もっと強くなって、もっと大きくなって戻ってくるはずだ。
それが、僕の願いであり、思いでもあった。




