第16話 ヒヤリハット
渋々ながらも、翌日になって、僕は西部さんにLIMEでメッセージを送った。
―とりあえず大丈夫でした―
と。
しかし、この ―とりあえず― という文言が、彼女の心の何かに触れてしまったらしい。
―今から、また京八の喫茶店に来て―
相変わらず有無を言わさない指令だった。
仕方がないので、僕は、
―わかりました―
返信だけして、すぐに向かった。
前回は、ゲリラ豪雨の中。今回は、酷暑の中だった。最高気温36度。地獄のような暑さだった。
(暑い~。マジで死ぬ)
というほど、ギラギラと輝く強烈な太陽光にさらされ、僕は帽子をかぶって、日差しを避けながら、京王八王子駅に向かった。むしろ、この暑さでバイクに乗る気はしないから、電車で助かるくらいだが。
また、前回、前々回と同じ、駅前の喫茶店が待ち合わせ場所だったが。
(何で毎回毎回。デートじゃないんだから)
と、僕は内心では不満だったのだが。
行ってみると、彼女はまたも窓際の席に座って、足をプラプラとさせていた。おまけにその日は、薄手の黄色いワンピースに、髪型はツインテールだった。まるで親を待つ小学生の子供のようにも見える。
そんな幼さを感じさせる彼女は、窓際の席でチョコレートパフェを食べていた。
アイスコーヒーを注文し、彼女の席の向かい側に座る。
「しかし、西部さんって、合法ロリですね。ロリコンにはたまらないのでは? ちなみに、僕は違いますが」
からかうようにそう告げると、真っ赤になって、怒り出した。
「合法ロリって言うな!」
とりあえず落ち着いて、アイスコーヒーを飲み、軽い世間話というか、天候の話をした後。
「で、結果は?」
早速、本題に入る。
僕は、見てきたことをそのまま告げる。つまり、袋小路さんの走りを後ろから見ていて、たまに中央線をはみ出したり、石にタイヤが当たったり、多少危ないところがあったように見えたことだ。
すると、西部さんは、子供のように見えるロリ体系には似つかわしくないほど、珍しいことを口にしたのだ。
「瀬崎くん。ハインリッヒの法則って知ってる?」
「ハインリッヒ? 誰ですか?」
「アメリカの損害保険会社の安全技師の名前だ。まあ、それはどうでもいい」
「知らないです」
「1件の重大事故の背後には、29件の軽微な事故、300件のヒヤリハットがある、っていう物だ」
「ヒヤリハット?」
聞きなれない言葉に反応すると、彼女は、答えてくれた。
「ヒヤリとしたり、ハッとしたりすること。つまり、事故ではないが、事故に繋がりそうな出来事。今回の亜里沙の走りもそれだな」
「思いきり、日本語なんですね」
ヒヤリハットという、一見、別の言語に聞こえる用語が、単に日本語の擬音に近い、そのままの事象を示していたことに、僕は拍子抜けしていた。
だが、思いのほか、というと失礼だが、幼児体系に似つかわしくないほど、実は彼女は賢かった。
「この法則のキモは、たとえどんなに軽微な出来事でも、事故に繋がるようなことは未然に防いで、対策をするという、リスク管理の重要さを訴えることにある。よく、工事現場などでは重要視される指標なんだ」
「詳しいですね」
「私の父が、よく言ってるからな」
彼女の父が、何の仕事をしているかが少し興味があったが、あえて聞かなかった。恐らく工事関係者か、ミスをすると非常にマズい、ミスに厳しい現場にでもいるのだろう。
「今すぐには事故ることはないかもしれんが、気をつけて見ていてくれ」
「それはいいんですが、どうして僕が?」
「私はバイクには乗れんからな。君が見るしかない」
「まあ、その身長じゃ、そもそも足つかないでしょうね」
「身長のことじゃない! そもそもリスクがあるバイクに乗りたくないだけだ」
と、彼女は反論していたが、僕は、必死に否定する彼女を見て、逆におかしいと笑ってしまうのだった。
事実、身長が極端に低い、145センチ程度しかない彼女では、おそらくほとんどのバイクでまともに足がつかないだろうから。
一方で、女子にしては高身長な袋小路さんは、ほとんどのバイクで、ローダウンシートがいらない。
まさに、二人は凸凹コンビなのだ。
まあ、それはともかく、西部さんとずっと一緒にいても、それはそれで色々と問題がありそうなこともあり、僕たちは、京王八王子駅前で別れた。
僕が、たまたま駅前の家電量販店に用事があったからだったが。
ハインリッヒの法則。それが今の袋小路さんにどんな影響があって、これからどう影響するかまではわからないが、確かに西部さんが言うように、注意はしておくべきだろう、と思うのだった。




