偽人
――どっちへ行った!
――追え!
――向こうだ!
「はぁ、はぁ、はぁ……」
路地を抜け28番街へ。彼はスピードを緩めることなく、エルマストリートを駆け、また路地へ入る。
――そこだ!
――よし、言え!
――この偽物め!
街に狂気に満ちた声が響き渡る。それは耳にした者の恐怖心を煽り立てるが、その声からも怯えが窺える。走り続ける彼もまた怯えていた。自分が追われているわけでもないのに、彼は焦燥感に駆られて足を止めることなく走り続けた。必要もないのに息を荒げながら。まるで自分の存在をこの世界に示すように。
――言え! 言えよ!
――だ、駄目だ、おれには言えない。
――お前も偽人だな!
彼は自分が響かせている足音に神経を集中させ、耳に残る喧騒を散らそうと努めた。そして……
「……ただいま」
「あら、おかえりなさい。随分、遅かったのね」
「ああ、まあね……ほら、君が食べたいって言ってた、これ……」
家に帰った彼は茶色い紙袋を彼女に手渡した。彼女が袋の中に手を入れ、「まぁ……」と呟き、取り出したのは色鮮やかなオレンジだった。そのオレンジを手のひらに乗せた彼女は、ベッドに腰かけて穏やかな日差しに包まれていた。その光景を見て、彼はまるで絵画を眺めているかのような気分になり、表情を和らげた。
「アダムとイヴ……」
「え?」
「いや、禁断の果実って実は林檎じゃないらしいって、ふと思い出して」
「ああ、そうなの。でも、ふふふっ、オレンジじゃないでしょうね」
「はははっ、そうだね」
「うふふっ、でもこれ、わざわざ買いに行かなくても注文すればすぐに届くのに」
「ああ、でも今はその、外に出たい気分というか」
「あら、私と一緒にいるのが嫌なの?」
「そんなわけないよ! ただほら、それを届けに来るのがロボットじゃないか」
「ああ、そうね……でも街は今ちょっと怖い感じなんでしょ? ここはセキュリティロックされているから承認した人しか入れないけど」
「ああ。みんなどうしたらいいか分からない感じだった。こんなの、この世界が始まってから初めてだってさ」
彼が言うこの世界。今、人類は皆、生命維持カプセルの中に入って脳と機械を繋ぎ、仮想空間の中で生きている。
だが、それは高度な人工知能によって人類が無意識に支配されているという話ではない。彼ら自らが望み、ここで生きることを選んだのだ。
もっとも、そう生きることを決めたのは彼らよりも遥か昔の世代の人々だった。
その昔、科学技術が発展し続ける一方で地上は資源を擦り減らし、さらに環境変動、度重なる災害、そして引き起こされた戦争により、大勢の人々が苦しんでいた。疲れ果てた人類が神へ祈ることをやめ、楽園をこの地上に創造しようと考えるのも当然の流れだった。
人々は少しずつ仮想空間の中に移住し始め、やがて、その管理は完全に機械に任せるようになったのだ。
栄養補給や排泄行為の始末はもちろん、嗅覚、味覚、触覚、性行為の快感といった人間のあらゆる感覚がコントロールされている。
一方で、この仮想空間の中では人々は性別、年齢、体型、肌の色など見た目を自由自在に変えることができ、そこには劣等感も差別もない。欲しいものが手に入り、したいことは何でもできる、まさにゲームのような世界。必要なのは睡眠だけで食事も労働も必要ない。精神衛生上のため、仕事や食事は存在しているが強制されるものではない。心豊かに、思い思いの生活をしていいのだ。
それでも人々は学び、職に就き、そして恋をしている。多くの人が普通の生活に準じている。それは慣れ親しんだ社会の名残と言ったところか。自由にしていいと言われても、案外できないものだ。もっとも、自由と言っても他人を害する行為は禁止されており、また、子供は学校へ通うよう定められている。
そう、子供。結婚という制度もこの世界で存続している。以前とは違い、見た目を自由に変えられることから、結婚相手は中身を重視して選ぶようになったが。
機械が夫婦となった者たちの体から精子と卵子を抽出して作られた子供は、人工保育機の中ですくすくと成長する。そして、脳が機械と繋げるのに十分な大きさになると、仮想空間の両親のもとへ送られる。子供は両親のもとで学び、育っていく。楽園で親と子ともに平和な暮らしを約束されているのだ。だが……
「偽人……か」
最近、偽人と呼ばれるものの存在が明らかになった。それは人間を管理し、世話をする人工知能が作り出した言わばNPC。この仮想世界で人間になりすまして暮らしているという。当然、偽人は子供を作ることができない。ゆえに、もし自分の妻が偽人であれば、その子もまた偽人。人工知能によって用意されたものでしかないのだ。
人々はお互いを偽人だと疑い合い、そして口汚い言葉を浴びせるようになった。
「ん、今何か言った?」
「いや、別に……」
偽人の存在が明らかになったきっかけは、その偽人の目の前で、ある言葉を口にしたことだった。その言葉を耳にした偽人は動きを止め、そして壊れたかのように痙攣するという。
「その……君は違うよね? なんて、ははは……。偽人じゃない……よね?」
「ええ、もちろんよ」
彼の問いに対し、彼女はにっこりと笑って答えた。だが、彼には彼女の言葉が本当か嘘かどうか見破ることはできない。
「あなたはどうなの?」
「僕は違うよ」
相手が偽人かどうか見破る方法はただ一つ。興味本位からシステムへの侵入を試みた者たちにより暴かれた言わばNGワード。人工知能によって禁止され、人々の記憶や記録から消されていた口汚い言葉の数々を、ただ口にするだけ。
「ねえ、その……」
「ん?」
「ウン……」
「うん?」
「ンコ……」
「んこ?」
「ファッ……いや、何でもないよ……」
ただ、彼は思った。今、彼女の質問に淀みなく答えられた自分は、そして、禁じられた言葉を口にすることに抵抗がある自分は本当に人間なのだろうか。そして、人間であったとして、今まで通り暮らせるのだろうか。この楽園で……。
猜疑心はウイルスのように広まり、人々は再び知ろうとしていた。禁じられた『戦争』という言葉を……。