紅花は狂気に囚われる
屋敷の住人達が寝静まった頃、私はベランダに出て、星空を見上げていた。
手元には遠くにいる人物と会話が出来る魔道具を乗せて、久しぶりに話すその相手と他愛のないお喋りに興じていた。
話の内容といえば貴族の娘には余りにも不釣り合いな血生臭いものが多く、とてもじゃないが家族には聞かせられないものだった。
話も盛り上がり、やがて話題が私の色恋になると通話相手であるシーシャが興奮したように言った。
「それでそれで? あの『血塗れのマッド』をどうやってフったのよ。相当、アンタに入れ込んでたでしょ」
「ああ……別に。普通にもう要らないから別れてって」
マッドは元恋人の名前である。
私でさえ本名を知らない、凄腕の暗殺者だ。
まぁ、私も貴族でありながら家族に内緒で、暗殺組織にも身分を偽って暗殺業をしてお金を稼いでいるのだ。
幾ら恋人でも言えないことの一つや二つ、あるわよね。
元々、お金が欲しくて彼に近付いたのだ。
目標金額にそろそろ達するし、凄腕故に何かと恨みを買う彼と一緒に居たくなかった。だから私は別れを切り出したのである。
少々、言い方がキツかったかなと自分でも思うが、彼があれくらいでショックを受けるとは思わない。
そんなことを考えているとシーシャは親父のような声を出した。
「っかぁ〜! 流石! 『氷の紅花』じゃなきゃ言えない台詞ね!!」
「いや、私じゃなくても言えると思うし、その通り名やめてもらえるかしら。好きじゃないのよ」
誰が呼び始めたか。残念なことに私にも通り名が付いているのだ。
ダサいから切実にやめてほしいが、シーシャは面白がって毎度その名で呼んでくる。
困ったものだ。
「ええ〜、私は良いと思うけどなぁ」
「シーシャ」
言外にこれ以上はやめろと伝えると、魔道具の向こう側でシーシャの笑う気配がした。
「はいはい、キシュー。これでいいでしょ?」
キシュー。
それは私が身分を偽る際に作った、暗殺者の時の私の名前だ。
親しい間柄でさえ本名を教えられないことに寂しさを覚える。けれど、そうなるように望んだのは私であり、今、片足を踏み入れている世界はそれが当たり前なのだ。
いつか本当の私でシーシャと会うことが出来るのだろうか。
しんみりしている私のことなど知らないシーシャは、ふんすふんすと鼻息荒く訊いてきた。
「で、で? 同業者ですら見たことない『血塗れのマッド』の素顔ってどんなの? 超絶イケメン??」
シーシャの疑問に私は彼の顔を思い浮かべる。
別れたのが一年も前だから、浮かんだ彼の顔はなんとも朧げだった。
「イケメン? いいえ、平凡……だったわね。たぶん」
「なんで曖昧なの」
必死に思い出そうとしても出てくる顔はぼんやりとしたものばかりだ。
髪型は普通。太っている訳でも、痩せ細っている訳でもない。髪色も目の色もよく見かけるブラウンだ。声も普通に聞き取りやすい良い声だと思うが、それだけだ。
「これといった特徴が無いのよ……そう、見てもすぐに記憶から消えてしまうような印象の薄い顔立ち。最後に会って、フった時からもう一年以上経ってるし、あまり覚えていないわ」
「はぁああん! 元恋人でもその姿は印象に残らない。流石、暗殺組織ナンバーワンの男! 存在からして違うわ!」
シーシャはマッドのことが余程気になるのだろう。
暫く興奮していたが、熱が冷めると、咳払いをして取り繕っていた。
今更だから気にしないでいいのに。
夜風に流れて梟の鳴き声が聞こえてくる。
月の位置もいつの間にか移動していた。
もう時間ね。
私は手の中の魔道具を握り締めた。
「……お喋りはここまでにしておきましょう」
「それもそうね。お互い、敵にならないことを祈るわ。それじゃ」
「ええ」
お互いに「さよなら」も「また会おう」も言わない……そういう世界だからだ。
私がこの世界に飛び込んで、まだ右も左もわかっていなかった頃、ベテランの先輩暗殺者に、同業者に親しいものを作らない方がいいと言われた。
当時はよくわからず、適当に頷いていたが、今ならよくわかる。
もしシーシャと敵対したら、私はきっと殺されるだろう。
……自分の性格が暗殺業に向いてないのは理解している。
だからこそ、金銭がある程度貯まったら徐々にこの世界から姿を消すつもりでいた。
暗殺者にも、貴族にもなれない、中途半端な自分……。
魔道具を懐にしまって、私は室内へと戻る。
差し込む月明かりを頼りにベッドへ行くと、側にある机に視線が止まった。
机の上は二つの封筒がある。
一つは所属する暗殺組織からの依頼書だ。
差出人不明の暗殺依頼は、報酬額が相場の五倍も高く、なんと私を指名してきたのだ。暗殺対象は魔物討伐戦において大活躍し、男爵の地位を授かった、最近何かと持て囃される男、マディークロス・グリディエンスだ。
そしてもう一つの封筒はパーティーの招待状だ。
差出人はマディークロス・グリディエンス。パーティーの開催日は一週間後であり、暗殺依頼の期日も一週間後である。
疎い私でもタイミングが良すぎると疑ってしまうこの件。
果たして手を引くべきかと悩んだが、報酬があまりにも魅力的だった。
マディークロスといえば、たった一人で百以上の魔物を倒した男だ。おまけにシーシャが喜びそうなイケメン……美丈夫である。面も良く、力もあれば自然と国民から英雄視された。
誰もが注目する男。
そんな男を殺すとなるとリスクも大きくなる。下手をすれば私が死ぬことになるだろう。
「…………」
それでも今の私はお金が欲しい。
この家を出て行って、生きていけるだけのお金が。
「搾取されるのは……もうごめんよ」
ぎりりっと無意識に歯を食い縛ってしまう。
私は封筒の端を指先でなぞった。
◆ ◆ ◆
一週間後、私はお金と命を天秤にかけてお金を取った。
少しでも早くこの家から出たい。
その想いが強かった。
失敗したら、まぁ……その時だ。
既に暗殺用の針を用意し、遅効性の毒も塗ってある。持ち物検査はしないだろうが、念の為、それを頭に付けている髪飾りの中に隠した。
なるべく薄い印象になるように化粧を程々にし、ドレスは闇夜に紛れやすい濃紺を選ぶ。
出る時に義妹から嫌味をぐちぐち言われたが今は気にする余裕はない。
会場となるグリディエンス家の屋敷へ着くと、既に招待を受けた貴族達が彼の屋敷へと入っていくのが見えた。
今回のパーティーは男爵になりたての彼が、今後の付き合いの為に場を設けたお披露目会みたいなものだ。故に格式ばったものでなく、軽食は出るがダンスはない。
夫婦で来ている者もいるが、各家の当主や代表が一人で来ているところが多かった。特に私のように、年頃の娘が一人で来ている割合が高い。
皆、美丈夫である彼をひと目見たくて来たのだろう。
これだけ女性の数が多いのだ。もしかしたら彼の方もお嫁さん探しでパーティーを開いたのかもしれない。
見知った顔をちらほらと確認しながら私は目立たないように隅へと移動し、軽食をいただいた。周囲に気を配りつつ、本日の主役であり標的である男を眺め見る。
女性陣に囲まれた彼はとても目立っていた。
緩く波打つ髪は銀に輝き、太い眉は男らしさを感じるが笑った顔がとても柔らかく、全く荒々しさを感じない。
透き通るような翠の瞳が綺麗で、どちらかと言えば女性らしさを初めに感じた。けれども、全体的に見れば体格が良く、服の上から見てもわかる筋肉に男性の魅力を感じる。
柔和でいて力強さを感じる。
不思議な人だな。
そんなことを思いながら私は時間を潰した。
パーティーも後半に差し掛かった頃だろうか。
彼に挨拶する人数は減っていき、皆、思い思いに楽しんでいる。
そろそろ仕掛けるか……。
持っていたワイングラスの中身を飲み干して、髪飾りを直すふりして毒針を取り出す。それを手の中に隠して、私はゆっくりと彼に近付いた。
挨拶の切れ間を見計らって声をかける。
マディークロスは私に気が付くとにっこりと笑顔を見せた。
ついこの間まで貴族でなかった人が笑顔を崩すことなく長時間もいられるなんて……見た目だけではわからないけど、肉体的にも精神的にも強いわね。
流石、たった一人で数多の魔物を屠った男。
気を引き締めなければと面には出さず、私も同じように他所行きの笑みを浮かべた。
「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。ホフス家長女、キルシュエルと申します。前の魔物討伐戦においては数多のご活躍、伺っていますわ」
「ありがとうございます」
ドレスの裾を軽く摘み、軽くお辞儀をすると、向こうも軽く頭を下げ、返してきた。
至近距離で見ると翠の瞳がキラキラと綺麗で吸い込まれそうになる。
これは若いお嬢さん方が夢中になる訳ね。
けれど、私は夢中になる訳にはいかない。
「今代限りではありますが、男爵の位を授かりました。今後、何かとお会いすることもありましょう。さぁ、遠慮せず、どうぞ楽しんでいってください」
「ありがとうございま……きゃっ」
今度は深く礼をとる為に片足を半歩後ろにやるフリをして、わざとバランスを崩して目の前の彼の胸に飛び込んだ。
「危ない!」
マディークロスは私を受け止める。
勢い余ってがっしりとした胸筋に顔面を埋めてしまったが、彼の意識が私の頭部に向いているうちにサッと腕を彼の背後に回した。
手の中に隠していた毒針を素早く構える。
少しでも針が刺さって毒が体内に入ればこちらのものだ。
彼の身体を掴んで支える。
そして、毒針を刺す……!
「いけない! ドレスが!」
「!?」
あと少しだったのに、突如、マディークロスは私を抱き上げると、会場を抜けて近くにある部屋に飛び込んだ。
私は見つからないように毒針を握り締めたまま、なされるがままになっていた。
「い、一体、何ですか!」
部屋に入り、大きな椅子に座らされた私はマディークロスを見上げた。
彼は困ったように眉を下げると、視線を私の腰あたりにやる。釣られるように私も自身の腰を見ると、ドレスがぱっくりと裂かれていた。
下着より下の位置だった為、見えているのは太ももだけだが、貴族の娘にとっては大問題だ。
綺麗に布が裂けているので、何者かによって切られたのだろう。
いつ?
いつ切られた?
この私が気付かなかったなんて……会場に来てから会った人物なんて限られている。
周囲の人間にも気を配っていた。
ドレスを切るタイミングなんて……。
「…………!!」
一人だけ、いた。
切られても、気付くことが出来ないタイミングが一度だけあった。
標的を殺す為に毒針に意識を向けていた瞬間が。
目の前にいる男が切った。
そう理解した瞬間、考えるよりも先に足が出ていた。
ヒールの踵で相手の足を狙うも避けられる。
体勢的にこちらが不利だ。
油断した。
思わず舌打ちした私は持っていた毒針を構えて、上体を前に倒す。ぐっと足に力を入れ、男の脇を通り抜けるように飛び出した。
「おっと、駄目だよ」
男の落ち着いた声が耳元で聞こえて、男は私の身体を押さえ込む。
最初から逃げ切れるとは思っていないわ!
寧ろこの時を待っていた!
密着するこの瞬間を狙って、私は男の身体に毒針を刺した……はずだった。
「う、うそ……」
針は先端からドロドロに溶けていた。
針を持っていた指先がじわじわと熱くなり、堪らず放り投げる。
どういうことなのと視線をやると、男はくすくすと笑っていた。
「駄目だって、キルシュエル。そんなお粗末な暗殺方法じゃ、俺を殺せないよ」
「な、なんなの……何者なの!」
男は柔和な笑みを浮かべて、とてもリラックスした様子でいるのに、いざ攻めようと観察すれば隙が一切無くて打って出れない。
得体の知れない恐怖がそこにある。
男は私の腕を優しく、けれども振り解けない力で掴むと再び椅子に座らせた。
「俺のことがわからないの?」
「知らないわよ……初めて会うのよ、私達」
「ふーん、じゃあ、こう呼べばわかるかな? 『キシュー』」
その名は同業者しか知らない名だ。
やはりこの暗殺依頼は罠だったかと睨み付けると男は少し焦っていた。
「ええ? これでも俺がわからない? 仕方ないな……」
そう言うと男はパチンッと指を鳴らす。
すると男の姿が一瞬で変わった。
綺麗だった銀の髪も翠の瞳も、ありふれた茶色に変わり、むっちりとしていた筋肉が萎んでいる。柔和な笑みは変わらないが、その姿は埋没するような特徴のないものだった。
この姿の男を私はよく知っている。
「マッド……」
「そうだよ〜。君の恋人のマッドさ。あの時は俺も君も暗殺者として活動していたからね。こうやって魔術で平凡な見た目にして変えていたんだ」
「……もしかして私指名で匿名の暗殺依頼をしてきたのって」
「うん、俺だね」
にっこりと笑みを深める彼に私は警戒を強めた。
「フラれた腹いせに私を誘き出して殺すつもりだったの?」
「まさか! 愛しい女を殺すなんてする訳ないだろう」
ありえないと首を振るマッドに私は理解出来ず混乱した。
「はぁ? だったらなんで、こんなこと……」
「普通に呼び出しても君は来てくれないだろ。だから依頼を使った」
マッドは私の隣に腰掛ける。
大きな椅子と言えど大人二人が座れば少々狭くて、密着する体温から逃れようと隅に寄るが、腰に腕を回され引き戻されてしまった。
これでは先程よりも密着しているではないか。
抗議の意味を込めて睨んだがどこ吹く風だ。
「俺はね、君にフラれてからずっと考えていたんだ。どうしたら君と一緒にいられるのかってね。知っての通り、俺は暗殺者だ。親もいなければ、帰る故郷もない。そんな俺が伯爵令嬢である君と一緒になるには同じ土俵に立つしか無いって思った」
「……いつから、私のことを知っていたの」
「付き合って、一週間ぐらいかな」
「……そう」
暗殺組織には己の身分を偽って入った。偽名も使った。
マッドほどではないが顔や姿も変えた。そう易々と知られることはない。
それだけの自信はあった。
しかし、この男はたった一週間で見破った。
その上でずっと黙っていたのだ。
自然と拳に力が入る。
力み過ぎて震える手の甲に、マッドがそっと手を重ねてきた。
「君のこと、知っていたのに黙っててごめん」
「いいのよ」
もう済んだことだ。
私は緩く首を振って、気にしないでと言った。
「それで? わざわざ魔物相手に頑張って爵位を得たようだけれど、残念だったわね。私はホフス家との縁を切って爵位を捨てるつもりだし、貴方と結婚するつもりは無いのよ」
そもそも別れたのだから結婚も何も無いのだが。
しかしマッドは気にしていないようだった。
「君が自らの意志で平民になるというなら俺もそうするけど……やっぱり生活していく上では爵位があった方が楽だと思うよ?」
……気にしていないのではなく、話が通じていないだけだった。
「……貴方には関係ないでしょ」
「関係あるよー。俺達、結婚するんだから」
「しない!」
この男の中では既に結婚することが決定しているらしい。
この男、こんな性格だったかしら?
付き合っていた当時とは異なる性格に、これが本当の彼なのかもと妙に納得する。納得するが、結婚に関しては話が別だ。
離せ離せと喚く私に対してマッドの顔色は変わらない。それどころか魔術を解いて上半身をこちらに寄せてきた。
透き通る翠が私を射抜く。
まるで金縛りにあったみたいに、私の身体は硬直した。
駄目だ、綺麗すぎて魅入ってしまう。
抵抗しない私に気を良くした彼はそっと頬を撫でてくる。
「結婚式のドレスは何色がいいかなぁ……あ、式を挙げたら暫くは外に出られないと思ってね?」
「え?」
「だって、君、今まで何度かお誘いしても、のらりくらりと躱してきたじゃない? 御令嬢だから清いままでいる必要があるんだろうなって我慢してきたけど……結婚したらもう我慢しなくていいだろう?」
「なっ」
結婚式の後に何があるのか。
そんなこと、少女では無いのだからわかっている。
彼の頬を撫でる感触があまりにも優しく、それが逆にもどかしいと感じてしまう。
「……ふぅん? そんな顔して、俺に撫でられるのは気持ちいい?」
彼が意地悪く訊いてきて、我に返った私は羞恥心に襲われた。
顔が熱い。
今の私は誤魔化しが効かないほど、真っ赤だ。
くっ……こんなこと、マッドの時は一度もなかったのに!
私の反応に余程満足したのか、彼は蕩けるような笑みを浮かべると、顔を私の首元に寄せてきた。
「ふふっ、楽しみだなぁ。たっぷり可愛がってあげるからね、俺のキルシュエル」
彼の鼻先が私の首筋に触れて、そのまま吸い付かれるようにキスをされる。
ちゅっと音を立てて離れていく熱に、私はもう何が何だかわからなかった。
「け、結婚なんてしないんだからぁー!!」
「あははっ…………かーわいい」
ドロドロの甘さの中に、獲物を仕留めるような鋭さで彼が私を見ていたなんて知らない。
絶対に逃がさないと呟かれた言葉も、いつの間にか私に仕込まれていた位置探知の魔術も、自分の感情にいっぱいいっぱいだった私は気付くことが出来なかった。
「二人で幸せになろうね……愛してる」
ただ、そう言った彼が余りにも嬉しそうで、その笑顔に見惚れていたのを、私は覚えている。
【終】