3-40 おぞましき運命
ベルは高鳴る胸をリズムに乗せ、その時を待っていた。
アイドルのことを考え続け、自身の感じたはじまりを練り込み、デビュー曲として作り上げたその前奏が現実に聴こえていた。
場を温めた今この瞬間に、それを解き放つことができるんだと思うと、更に鼓動は高鳴った。
しかしそれを無防備に解き放つこともせず、乱暴に押さえつけることもせず、そのリズムに乗せていた。
とてつもない興奮を抱き、熱を浴びつつも、それを現実として把握して、自分を見失わない。
準備は完璧だった。
後は歌うだけだ。
『後は歌うだけ』そんな思考すらもなかった。
この曲を歌い、踊り、披露することは、もう運命のように決まっているのだと、そんな風にすら感じていた。
しかし
歌い出すことなく、止まった。
...
状況を把握するにつれて、身体の内側から外側へ火花のように弾けていた熱は、
身体の外側の輪郭にどろりと纏わり付き、脳味噌をじわじわと蝕む熱に変わっていった。
ーーー
舞台裏で演出家は、ベルの歌声が聴こえてこないことに違和感を感じた。
てっきり緊張によるミスだと思った音響担当だったが、アズカットの顔を一瞥すると一瞬でその異常感を察し、舞台を見た。
演出家と音響はすぐに飛び出した。
その時のベルは状況に絶望し、ただ呆然と立ち尽くしているように見えた。
実際、俯いて目を瞑っていた。
「ベルさん!逃げますよ!」
イドラはすぐに声をかけた。
しかし反応した様子がなかった。
直後ベルの顔は俯くのを終え、天を仰いだ。
2秒後「ふー」っと息を吐いた。
イドラはベルが混乱しているのだと察し、哀れみ、担いででも引きずってでも助けようと思い、ベルの肩を掴もうとした。
しかしイドラの手は引き止められた。
「アズカットさん、何をして!」
その時アイドル・ベルの頬を伝ってひとしずくの汗がこぼれ、ステージを突いた。
ベルはこちらを向いた。
そして-
「ベルさん、よかった、早く逃げましょう!」
イドラがベルの手を掴む。
しかしその手は優しく、それでいて力強く下ろされた。
ベルは目蓋を上げた。
「私は逃げません」
その言葉を聴いて、イドラは面食らった。
「...別にっ、逃げるって悪い意味で言っているわけじゃないのよ、生き延びるの」
「生き延びたら...私はまた歌える」
「そうよ、ここで死んだらもう-」
「でも、聴く方はそうじゃない」
「...?」
「私が逃げて、歌がこれで終わってしまったら、ここにいるみんなにとって、今日は悪い日、嫌な思い出ってことで終わっちゃいます。
それで歌そのものが嫌いになって、吟遊詩人が歌ってるのを聞くだけで今日のことを思い出して、頭の中がぐちゃぐちゃになって...
...そしたら、アイドルを広めるっていう私の夢が叶わなくなっちゃうじゃないですか。」
それを聞いて、演出家は納得ように口角を上げた。
「は...?」
一方でイドラは眉を潜め、目の前のおぞましき相手を疑っていた。
しかし疑ったのは、相手が信じられないことを言ったからではなかった。
「だからっ!!今日のことを何年何十年何百年経っても、すごい体験をしたんだって、楽しく語り継いでほしい。
トラウマにさせたくないんです!!
生き延びても、生きるのが辛かったらダメなんです!かといって、死が救済だなんて思っちゃいない...!
じゃあ、私がみんなに生きるのが幸せだって思えるようにしてやるっ、その理由になってやるって!!そう、決めたんです...!!!」
彼女を疑ったのは-
ふざけて見えることを真剣に押し通そうとしてくるその雰囲気に、見覚えがあったから。
教師としてここ数年見ていた金髪の彼女に。
ただ姿が似ているから重ねてしまっただけ...それだけなのか、あるいは...
イドラはひと息ついて、さっきのベルに負けぬ気迫で言った。
「綺麗事で、現実を動かせるとお思いですか?あるのですか?確実に成功させられる策が。
まさか運任せとは言いませんよね?」
ベルは瞳に確かな意思を宿したまま言った。
「「もちろんあります、確実な策が!!」」
ベルの芯のある言葉と同時に、息切れながらも絞り出した声がステージの下から飛び込んできた。
「...!?」
そこにいたのはメルネ・フロウデンだった。
「イドラ先生、安心してください、ありますよ...確実な策が、ベルちゃんと私で。」
暴れるリスの魔物を両脇に抱えながら、メルネは言った。