女の身では解らないことなんでしょう
泌尿器系の病気や外科手術の話をします。お嫌いな方は読まないでください。
わたしが執筆している小説の舞台が1860年代のヨーロッパなので、歴史的事実のほかにもどのような生活環境なのかも合わせて色々と調べました。解らないこともあるし、調べきれない点もあるので、そこは小説だからと開き直り。
で、当時のフランスの支配者がナポレオン3世です。ナポレオン3世は功績もありますが、失策もあり、普仏戦争で捕虜になっちゃって、そこから帝政の崩壊となります。ナポレオン3世は膀胱結石で体調を悪化させて手術をしたものの、回復せずに亡くなったと資料の本にあります。結石の除去の為の手術はともかく、どうして卵くらいの結石ができてて、それが膀胱にあるって判ったんだろう? まだレントゲン博士がX線写真を撮ってなかったよなあ、まあ、参考にした本(『怪帝ナポレオン三世 第二帝政史』(鹿島茂著 講談社学術文庫)と『フランスの歴史をつくった女たち 第10巻』(ギー・ブルトン著 曽村保信訳 中央公論社))やWikipediaにも載っていたから、それが歴史的事実なんでしょう。と、信じました。
別にそれが間違いとかそういう話ではなくて、膀胱結石の診断や手術って十九世紀よりももっと前からあったよって、別のご本で知りました。
図書館で、『黒衣の外科医たち 恐ろしくも驚異的な手術の歴史』(アーノルド・ファン・デ・ラール著 福井久美子訳 鈴木晃仁監訳 晶文社刊)を借りました。オランダの外科医さんで、ご自身の医者としての知識と経験、外科手術の歴史、著名人の症例の考察などの難しいけれど面白い一冊です。その第一章が、「ある鍛冶屋の男 膀胱を自分で切り裂き摘出——結石」です。著者は、膀胱結石は不衛生が原因の細菌によって引き起こされる、十七世紀には体を清潔に保つのも、質のいい飲料水をふんだんに得るのも大変だったと説明します。十七世紀のアムステルダムの鍛冶屋ヤン・デ・ドートは膀胱結石に長年悩まされ、外科医が手摘出手術に失敗して、二度命を落としそうになったとあります。以下、引用します。
「膀胱結石を患ったことがない人には、どこを切れば結石を取り出せるか想像もつかないかもしれない。だが、尿の圧力で結石が下へと押されて膀胱の出口を塞ぐことから、ヤン・デ・ドートのような患者は結石の場所を正確に感じ取れる——肛門と陰嚢の間だ。この部位は会陰部と呼ばれている。といっても人体の構造を熟知している人なら会陰部を切開しようとは思わないだろう——狭い範囲に無数の血管と括約筋が密集しているからだ。膀胱の上部を切る方が簡単そうに思えるかもしれないが、腹部や腸に近いためかえって危険だ。切石師は解剖学者ではなく、ろくに知識もなく無謀なことをする狡猾なペテン師だったため、膀胱の機能を損なう恐れがあることなどお構いなしに、下方からメスを入れて直接結石を取り出した。そのため一命を取り留めても、被害者のほとんどは尿失禁に悩まされたという。」
ナポレオン3世が乗馬で激しい痛みを感じて、医者に診てもらったら膀胱結石と診断されたって、そういう事情かと納得しました。乗馬時の振動で鞍に当たる箇所に結石があれば痛いでしょう。身体構造の性差で、女の身では解らず、想像するのみです。だいたい膀胱結石の患者のほとんど男性だっていうし。(膀胱炎が女性に多い理由も構造の差らしい)
ヤン・デ・ドートは、1651年のある日、妻を魚市場に買い物に行かせた隙に、弟子に手伝わせて、自分で会陰部にナイフを入れて卵より大きな(110グラムもあった)結石を取り出しました。何年も化膿が止まらなかったとありますから、その後何年かは生きていた訳ですけど……。
詳しい内容は省きますが、膀胱結石の除去手術は患者の負担にならないよう、様々考案されていきました。ナポレオン3世がどんなタイプの手術法を受けたかまでは資料本にはなかったけれど、幾らなんでもヤン・デ・ドートみたいな施術ではなかったはず。
『黒衣の外科医たち』では、麻酔の無い時代の外科医は正確さよりも迅速さが大切で、傷口や出血箇所をちくちくと縫合する暇はなく、焼き鏝で焼いて止血したとか。それはそれで火傷して、その火傷もまた感染症の心配があるじゃないかと感じること大です。細菌学どころか、医療行為に消毒が必要と知らず、外科医は白衣ではなく黒衣をまとっていました。血が飛び散っても気にならない色の服、そして血でガビガビになった黒衣が流行りを証明するステイタス。怖いなあ。
『黒衣の外科医たち』ではオーストリア皇妃エリザベートがテロリストに胸部を刺されてもどうしてしばらく動けたかの考察もされています。そのほか麻酔とヴィクトリア女王の無痛分娩、ルイ14世が虫歯の抜歯でとんでもないことになったとか、痔の手術をしたとか。歴史上の著名人の怪我や病気、受けた外科手術に関する考察、瀉血や割礼、麻酔、開腹手術や腹腔鏡手術、縫合糸など外科処置に欠かせない事柄など、面白い上に勉強になりました。




