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映画『関心領域』

 映画『関心領域』の内容に触れます。また、文中、不快な表現と感じる方がいらっしゃるかも知れません。あらかじめお知らせします。

 今まで映画を観ていて心を動かされて泣いたり笑ったりはあったが、吐きそうになったのは初めてだ。エンドロールが始まるとそそくさと席を立った人がいた。いつもエンドクレジットを観ない習慣の人の可能性もあるが、もしかしたら暗闇にいるのが耐えられなくなったからかも知れない、と後から思った。

『関心領域』の前評判というか内容については耳にしていたし、アメリカ合衆国のアカデミー賞で音響や国際長編映画部門で受賞、ほかの映画の賞でもノミネートや受賞があり、評価され、話題性はある。その所為かどうか知らないけれど、A24の制作だか配給だかなのでミニシアター系での単館上映になるかと思ったら、宮城県仙台市ではシネマコンプレックスで上映された。

 タイトルが映し出されたかと思うと、画面は真っ黒、一瞬フィルムだかデータに不具合が出たかと驚かされる。画面が明るくなって白人の家族がピクニックに興じている姿が映る。整備された公園や広場ではなく、自然のままの場所。夫婦がいて子どもたちがいて、使用人たちがいる。夫婦の自宅にはセントラルヒーティングがあり、広々として暮らしやすそうだ。何よりも庭が広い。花壇が並び、プールがあって、温室があって、畑もあるし、庭でパーティだってできそうだ。朝、夫が仕事、子どもたちが学校に出掛けると、妻は末子の赤ん坊を抱いて、庭の花々を眺めて子どもに花の名前を教え、花の香りをかがせたり、触らせたりする。庭の向こうには高い塀があり、塀の上には有刺鉄線が張られている。家族は黒い犬を飼っているが、その犬が吠えていなくても犬が吠えるのが聞こえてくる。人の怒号や悲鳴も聞こえてくる。

 暗緑色(に見える)服を着た男性が猫車で荷物を運んでくる。家政婦が受け取り、家の中に運ぶ。台所に食材を置くが、それだけではない。妻は食卓に服か布地を置き、女性の使用人たちに「一つずつ取りなさい」と声を掛ける。妻本人は寝室に行って、毛皮のロングコートを着て、鏡の前でポーズを取る。コートのポケットに棒紅があるのに気付いて取り出し、蓋を開けて匂いをかぎ、眺めた後に唇に塗ってみる。妻は「クリーニングと裏地の手直しが必要よ」と毛皮のコートを使用人に放り投げるように渡す。どすどすと歩く姿を見るとドレスアップしようとエレガントになりそうもないのだが、本人は気にしまい。

 これ衣替えの風景じゃない。

 その家に暮らす夫の方は軍服の衿のSSや髑髏の紋章からナチスの将校だと解るし、将校夫妻の自宅の側、高い塀の向こうが強制収容所、それもアウシュビッツだと会話の端々と画面から判明してくる。夫はアウシュビッツ強制収容所の所長のルドルフ・ヘス、妻はヘートヴィヒ、夫の勤め先の側に家がある。ヘスは職務に忠実で部下にも慕われ、誕生日には家族からも部下たちからもお祝いされる。妻は理想の暮らし、理想の家、庭を手に入れたと充実した毎日だ。塀の向こうから聞こえる悲鳴や銃声、そのほかの不自然な音は耳に入っていないよう。夫はつい顔を背けもする。

 過去、ドイツではナチス政権下でユダヤ人の財産を没収し、収容所に入れて隔離し、強制労働させた、だけでないのは歴史を学んだ者なら知っているし、音や塀の上から突き出ている監視塔や煙突を見れば解る。ユダヤ人の遺体を焼く焼却炉があり、改造、増設され、フル稼働で絶えず煙が立ち上っている。

 ヘートヴィヒの母親が滞在して、家や庭の見事さを褒めるがだんだんとお気楽でいられなくなる。隣から高い塀越しにも聞こえてくる尋常でない声、銃声、焼却炉の音、煙、映画ではこちらに解らないが、絶対臭いや空気の淀みがあるはずだ。夜中になっても稼働をやめない焼却炉から見える光と煙。ヘートヴィヒの母親は眠れなくなってしまう。ヘートヴィヒの末子は養育係に任せられて夜は夫婦の部屋にはいないのだが、その養育係も眠れない。赤ん坊が泣き続けても抱き上げるどころか、酒で気鬱を紛らわせている。この赤ん坊は、それが仕事とはいえ泣いてばかりで機嫌のいい様子が映し出されない。長男は金歯を複数箱に入れてじゃらじゃらしながら見ているし、弟はおもちゃで戦争ごっこ。庭に出れば嫌がる弟を兄は温室に閉じ込め、にやにやしている。娘は夜眠れないと、家の廊下などの隅っこに縮こまって怯えている。

 朝、母が食卓に出てこないから起こしてきてとヘートヴィヒは使用人に言うものの、どこにもいないと答えられる。そんなはずはないから探せと言うものの、ヘートヴィヒは書置きを見付ける。書面が画面に出ないし、読み上げもしないので内容は解らない。しかし、使用人に解ってて母の分の朝食も並べたのかと八つ当たりをして、夫に言って燃やして灰を撒いてやると呟く。家で働く使用人たちはドイツ人から連れてきた同胞な訳でも現地で雇ったポーランド人でもなく、ユダヤ人なのだ。

 ヘスの転属の話が出ると、ヘートヴィヒは家から離れたくないと主張して、夫は単身赴任をする。夫が何を考えているのかこちらは読めない。動物好きで家族を大切にし、職務に対する遣り切れなさというか、罪悪感を垣間見せるようで、任務遂行にためらいがない。会議の後でパーティ会場を階上から見下ろし、後に妻の電話で「天井が高いから、皆をガスで殺すのには効率が悪いと思って見ていた」と話す。

 夫は暗い階段を降りていて、踊り場で立ち止まり、急にえずく。胃の中は空だが吐き気が止まらないといった感じの内臓のひっくり返りそうな嫌な音。扉が開いて現代風の服装に身分証を胸から下げた女性たちが入ってきて、掃除を始める。ガラスケースに収まった縦じまの服、靴の山、松葉杖、ガス室だったと思われる場所と設備、ずらりと展示された顔写真。アウシュビッツの博物館。

 画面はルドルフ・ヘスに戻る。ヘスは画面のこちら側に視線を向け、また暗い階段を降りていく。画面は真っ暗になり、エンドクレジットでは怨嗟の声のような音楽が続く。ヘスの吐き気がうつったかと思った。映画館を出てからもその日一日、胸がむかむかするのが治まらなかった。ヘートヴィヒの母親は娘の家の隣が虐殺の現場であると気付き、差別感情の行きつくところを突き付けられて逃げ出した。誰だって嫌いな人物がいなくなればいいと想像しても、実際に抹殺するまで考えない。

 ポーランドの少女が夜闇に紛れて、収容所の作業場に森で摘んだ林檎を隠しに行く場面がある。見付かればその場で射殺される恐れがあり、家族にも累を及ぼすだろう。しかし、強制収容所の人たちに希望を与えたい気持ちが優先だったのだろう。ヘス家の娘が眠れず「林檎を配っている」と呟くあたり、娘は高い塀の向こうで起きていることと、その少女の行動を知っている。林檎の取り合いの声と制止する声が聞こえて、二男が「二度とするなよ」と呟くのは、軍人の口真似なのか、少女を思いやってか、ドイツ語の解らないわたしには判断が付かず、いいように解釈する。

 虐殺現場の隣であろうと、直に目にしないでいれば平気なのか? 差別している相手がどんな目に遭おうと平気なのか? 自分の生活と安全が守られてさえいればほかはどうなってもいいのか? 人間、忘却と慣れがあればどんな環境でも暮らしていけるのか? ポーランドの少女のように自らの良心に従って危険を顧みずに行動できるか?

 善きサマリア人のようになって汝の隣人を愛し、敵の為に祈れるか。

 抱えきれないほど重い。世界の悲惨は今も存在する。

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