読んだことがないが有名な芥川賞作家
石原慎太郎の訃報を耳にして、思ったのは、この小説家の作品を一つも読んでいないなあ、だった。ニュースで聞いたこの仁の経歴によると、政治家に転身したのはわたしが生まれるよりも前であり、地元の図書館で検索してみても、石原慎太郎の作品が揃っているとは言えない。
東日本大震災の際の「天罰」発言、現職東京都知事だったのに、まだこの人は自分が小説家だと思っているのか、と正直なところ呆れた。石原慎太郎自身がどう思っていようが、世間の認識は石原慎太郎は声の大きな政治家の一人であって、既に純文学の小説家ではなかった。筆を折っておらず、著書も出続けていたが、印象に残っていない。
父の影響でわたしは石坂洋次郎の作品を幾つか読み、その映画化された作品も見たことがある。『あいつと私』や『陽のあたる坂道』は石原裕次郎が主演していた。昔、職場で、我が家と実家の面々での旅行で秋田県横手市に行き、父の希望で石坂洋次郎文学記念館に寄ったと話をしていて、若い人から、それって裕次郎のお兄さんじゃないんですか? と尋ねられた。
若い人には、石坂洋次郎と石原慎太郎の区別がついてなかったのだ。どちらも昭和の小説家だから、平成・令和で読まれていないと言われてしまえばそれまでだが。
別のエッセイで、石原慎太郎が見当違いな書評があれば論戦を挑み、腕力にも訴える、との伝聞の伝聞の伝聞を載せた。真偽のほどは知らないし、興味もない。
『風と共に去りぬ』や『レベッカ』のように映像作品が有名になり過ぎてかえって読まれなくなかった小説作品といったものの一つといえる『太陽の季節』、偶然あらすじを知ってしまって、暴力的な内容に『完全な遊戯』は評価が高かろうが結局読む気にならない。
政治家になってからの行動力に見るべき点もあるのだが、「天罰」発言をはじめとする「ババア」発言やそのほかマイノリティ、弱者とされる側の人たちに全く添わない言動、拉致被害者の曽我ひとみ氏の母親に対する意見など、受信する人間がどう感じるか無責任なんじゃないかと失望する回数が多かった。
小説家が政治家になって悪い法はない。
しかし、小説家の人柄が前面に出てしまった故に、小説の内容が推し量れる気がしてしまうというか。石原慎太郎の男性そのもの、荒々しさのある主張に憧れる者もいれば、酷いと感じる者もいる。小説家なら作品で語るべきなのだろうが、石原慎太郎がどんな人間であるのかと、強く印象付けられれば付けられただけ、わたしは石原慎太郎の小説に魅力を感じなくなり、遂に本を手に取る気になれなかった。これは小説を売る戦略としてどうなのか。大いなる疑問である。勿論、若くして芥川賞を受賞し、長年同賞の選考委員を務め、政財界でも勢力を持っていたであろう石原慎太郎は、わたしの言うことなど耳に入った所で意に介すまい。何せ石原慎太郎の言によれば、更年期を迎えた女は無駄な存在なのだそうだから。