人は愛するものを殺す でも誰も死なない
大分前になりますが別のエッセイで比較文学者の小谷野敦の論を引きながら、日本の創作物で(主役級の)男性が叶わぬ恋に悶々と悩み苦しむ作品がない、あってもハンディキャップがあるとかコメディ色が強いとかで、そういった題材を演劇で取り扱っても取り乱した感じに見えなかったと書きました。フランスのラシーヌの戯曲『アンドロマク』で恋する女性が我が物になってくれるのならどんな条件でも呑もうとする男性陣、日本人が演じるとそこまで譲歩しながらちっとも弱味を見せているように見えなかったんですもん!
再びのおフランスもの、フランスの映画監督フランソワ・オゾンの『苦い涙』、恋して苦悩し、泣き叫び、昏倒してしまう男性の姿が赤裸々に映し出されていました。まず主役のピーター・フォン・カントがスマートなハンサムじゃないのがいいんです。冴えない太めの中年男性です。1970年代前半の西ドイツ、一棟のアパルトマンを舞台にしています。ピーター・フォン・カントは映画監督で寝室兼書斎の壁には聖セバスチャンの絵の複製画どーんと引き伸ばされて飾ってあって、その間にピーターの親友で女優のシドニーの肖像写真が大写しで同じように壁に飾られています。宗教画の題材にしても聖セバスチャンは半裸の美青年として描かれます。助手のカールがいて、ピーターはかれに食事だ、コーヒーだ、電話を持ってこい、脚本をタイプしろと命令します。カールに台詞はありません。ぴったりと撫でつけた髪に髭、スマートでお洒落な印象の青年は気紛れで理不尽なピーターに一切逆らいません。
女優のシドニーが訪ねてきます。駆け出しの頃からの仕事仲間で、今では名を成した同士といった様子で、ピーターは恋人のフランツとの破局をあけすけに語ります。
「人は他者を求めるのに一緒に生きられない」
別の訪問者が来て、シドニーは「あなたの住まいを待ち合わせ場所にしたの」としれっと告げ、旅先で知り合ったという若者を紹介します。北アフリカ系のアミールという青年にピーターの目は釘付けとなります。伸びやかな肢体、憂いと輝きを秘めた瞳、肉感的な唇に惹きつけられ、ピーターは解りやすい一目惚れ。ピーターはアミールに晩御飯をご馳走しようと約束を取り付けます。翌晩、晩餐の席で語り合い、アミールに俳優になってみないかと早速カメラテストを行います。訥々と語るアミールの姿と表情の変化、ピーターはカールと交代してカメラのレンズ越しにかれを見ます。君はスターになれるとピーターは言い、そのまま二人はベッドに。カールは見えないところで仕事部屋と食堂や厨房の後片付けをしているのだろうなあ、おまけに二人が絡み合うベッドサイドにお酒を持っていかなくてはならなくて、ご苦労様です。
季節は巡り九ヶ月後、アミールはピーターのアパルトマンに暮らすまま映画のデビューをし、雑誌にも掲載されるようになりました。自堕落な感じのアミールにピーターはやたら引っ付き、愛撫しようとしますが、アミールは一日中いちゃいちゃできないと倦怠感を醸します。まだまだ夢中になっているピーターは気にしていないようです。同性同士の恋愛模様と力関係の変化を目の当たりにしながら、カールは相変わらず無言でピーターの指示に従っています。アミールの夜遊びを責め、疎遠にしているはずのアミールの妻がオーストラリアから西ドイツに来た、会いに行くと聞かされて、ピーターは怒り、遂に破局となってしまいます。
アミールが出ていき、ピーターの生活は荒みます。仕事部屋にも寝室にもアミールの大写しの写真が壁に貼られ、煙草の火を押し付けてみたり、自分の体を重ねるようになぞってみたり。
冬にピーターの誕生日を祝おうと、母のローズマリーや寄宿学校に入っている娘のガブリエル、親友のシドニーがアパルトマンにやってきます。きちんとドレスアップした白いスーツ姿で対応するものの、悲しみと憤りが蘇ってきて、寄り添おうとする人たちに怒鳴り散らしてしまいます。激してひっくり返り、介抱され、散々の誕生日です。
「僕はアミールを愛したのではなかった。所有したかったんだ」
ピーターは母に語り、母は慰めるように子守唄を歌います。
今まで好き勝手言い付けてきて、かれの意志はお構いなしだった助手のカールにピーターは優しく語り掛け、感謝の言葉を口にします。
だからってそこで平穏無事に幕とならないのが『苦い涙』なのです。
フランソワ・オゾン監督、『焼け石に水』の頃から知っていました。でも『焼け石に水』と今回の『苦い涙』の原作者、旧西ドイツのライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは知りませんでした。『焼け石に水』も恋愛はどこから始まるか解らないけれど、より多く愛した方が苦しむ、といったテーマでした。




