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監督を忘れていました

 ここでR18の映画の紹介したって大丈夫だよね? 映画『ベネデッタ』の内容に触れます。

 別の映画を観に行って予告編を見た『ベネデッタ』、イエス・キリストの姿や声を見聞き、キリストの花嫁に選ばれたと言い、聖痕も現れ、高い地位に登りつめた修道女が同性愛の罪に問われる内容らしい。抑圧された環境での苦悩や愛情の話かな? 『尼僧ヨアンナ』みたいな話で相手が同性といものなのだろうか? いや焼き直しでは詰まらない物になってしまうから別の視点からかと好奇心が湧いて観に行きました。

 物語は十七世紀のイタリアの地方ペシアが舞台とのことですが、中世と変わらないような印象の風景です。裕福な家の娘のベネデッタが幼くして修道院に入ります。道中、傭兵の一団に囲まれて、追剥の被害に遭いそうになりますが、ベネデッタはわたしがお祈りすればマリア様が助けてくれると声を上げ、木陰から小鳥が出てきて傭兵に糞を落としていく場面がありました。ベネデッタ、祈れば通ずると信じ込んじゃう体験がまず出てきます。ベネデッタのあずかり知らぬところで修道院長と父親との持参金の額の交渉があり、なんでも沙汰は金次第の様子が描かれます。

 月日が流れ、ベネデッタは二十代半ばとなりました。聖母被昇天のお祭りなのか、院内でお芝居をしており、ベネデッタは聖母マリアの役をしています。ベッドに横たわり、昇天の場面でイエス・キリストの姿と声を幻視します。お呼ばれしているベネデッタの両親と聴罪神父や地区の司祭が宴の席にいます。そこへ激しく扉を叩く音と声がします。扉を開けると羊飼いの娘が助けを求めて飛び込んできます。父親から激しい暴力を受けて逃げてきたのです。持参金がないと修道院に入れないと冷静な院長のシスター・フェリシタ。しかし、ベネデッタと母の願いで父が持参金と羊飼いへの手切れ金を負担することで解決しました。羊飼いの娘バルトロメアは入会した経緯もあり、ベネデッタが世話係になります。バルトロメアは無学で礼儀を知らないし、恥じらいもありません。父親や兄から殴られるだけでなく、性暴力を受けていたと話します。

「美しさが仇になったのね」

「あたし綺麗なの?」

「わたしの瞳に映っているわ」

 バルトロメアはベネデッタの目を覗き込もうとします。

 そんな感じでベネデッタとバルトロメアは親しくなっていきますし、ベネデッタの幻視は続きます。ベネデッタは傭兵の一団に襲われて貞操を奪われそうになってイエス・キリストに助けられたり、またイエス・キリストかと思ったら蛇に体中絡まれたりと、当時の宗教観からして悪魔の淫らな誘惑なのか、それとも現代的に抑圧された性的な幻想なのか、観ている側はなんらかの象徴を読み取りたくなります。幻視のイエス・キリストは「私の花嫁」と呼び掛けもします。目覚めるとベネデッタの両手、両足から出血し、聖痕だと修道院は大騒ぎです。出世の為に奇跡を認めて喧伝したい司祭、修道院の名声や収入につながるんじゃないかと思う聴罪神父に比べて、院長のフェリシタは冷静に「祈っている最中ではなく、就寝中に聖痕が現れるなんて聞いたことがない。それに聖痕なら茨の冠をかぶった額にも現れるはず」と疑問を口にします。それを聞いたベネデッタが修道院にあるマリア像に祈っていると悲鳴を上げました。見事に額から出血しています。院長の娘のシスター・クリスティナはベネデッタの足元に割れた陶器を見付けます。

 司祭や神父の思惑から奇跡とされ、ベネデッタはシスター・フェリシタに代わり修道院の院長に任命され、個室の院長室で生活するようになります。ベネデッタは自分の世話係にバルトロメアを任じます。

 ベネデッタを告発しようとして失敗したクリスティナは命を絶ち、院長室の覗き穴から様子を探ったフェリシタはフィレンツェに向かい、教皇大使にベネデッタの不正を訴えます。

 果たして教会の権威はどちらに理があると判断するか、ベネデッタの秘密は暴かれるのか、といった展開となっています。

 どっちかというと、バルトロメアが恩のあるベネデッタに妙に懐き、恥じらいのなさから大胆な振る舞いをし、ベネデッタも積極的に受け入れていく十八禁な描写に続いていきます。クリスチャンでなくてもそれは罰当たりだろうと驚くようなことまでしでかすのに、ベネデッタは咎めず、それが後々証拠として裁きの場に提出されてしまいます。

 十七世紀は既にルネサンスを経て宗教改革の波が至り、カトリック教会は信仰の在り方を大事にし、奇跡を認めるのに慎重になっていました。しかし、地方のペシア、そして教会以外の生活の場を知らないベネデッタには中世そのまま、聖痕やキリストの花嫁に選ばれたといった神や天使からの啓示が自らの身に起こったと周りに広め、自分の立場を確かなものにしたいと願ったのでしょうか。

 神父は「父」を表す「バードレ」と呼ばれますが、ちょっとわたしの耳で女子修道院長をなんと呼んでいたか聞き取れませんでした。(英語で女子修道院長は”Mother Superior”。映画の使用言語はフランス語なんですが、わたしはフランス語で女子修道院長を表す単語知らないんです。でも確かに”mère”とか”maman”では呼ばれていなかったなあ。修道女同士は姉妹で呼び合ってます。これは修道士同士が兄弟と呼び合うのと同じ)プロテスタントは会派によって女性牧師は認められていますが、カトリックでは女性は現代でも神父の地位に就けません。弱いままでいたくないと感じて現状を変えるのに正攻法で主張する人間ばかりでないのは、歴史と現実が教えてくれます。

 ベネデッタが自分の幻視を真実と思い込んでいたのか、聖痕は自傷の結果なのか、突然男のような声で喋り出すのもわざとなのか、解釈は観客に預けられています。

 この映画の元ネタの本、『ルネサンス修道女物語 ―聖と性のミクロストリア―』(J・C・ブラウン著 永井三明/松本典昭/松本香訳 ミネルヴァ書房)も読みました。原題は『Immodest Act:The Life of a Lesbian Nun in Renaissance Italy』で、こちらの題名の方が物々しいです。当時の修道院での生活の一旦や同性愛への偏見、女性の立場が窺える内容になっています。聖書の内容を思い浮かべながら祈り、瞑想したら、それなりの知性と想像力の持ち主ならなんか視えてきてもおかしくないんじゃない、ただでさえ世間から隔絶されて厳しい清貧の生活してるんだもの、と思うのは異教徒だからでしょうか。女性が男性のように振る舞うのは自然に反し、男性の権威に逆らう行為で死に値したようです。かつてジャンヌ・ダルクが男装したのが異端に当たると罪に問われたのと同じく、女性が男性のように女性を愛するのは許されない罪だったのです。

 この映画の監督をすっかり忘れていました。オランダ出身のポール・ヴァーホーベン、わたしは『氷の微笑』の印象しかありません。『ロボコップ』は観たはずなんだけど覚えていません。リアルというか、お下品と言われるくらい過激な描写を恐れないといった感じの映画監督。今回の映画もそれですね。冒頭からして大道芸人が放屁に合わせて松明をお尻に持っていって火を点けていたし、バルトロメアは「ウンコしたい」と正直に言って厠に連れて行ってもらい、派手に音を立てて用を足しているし、その後ベネデッタから側の藁葛で拭くように仕草で教えられてました。

 ヴァーホーベン監督は宗教に関しては徹底して冷めた描写をしています。教会の運営上持参金の有無や額にこだわったり、宣伝の為に奇跡を認めたがったり、立派な儀式を執り行おうとしたり、神様を信じているのは純朴な庶民の方で、教会側は不信心な政治家のごとくです。ベネデッタは果たしてどちら側か、幻視は生々しいのに監督はわざと彼の女の内面を明かしません。

 流石はヴァーホーベン監督、八十を過ぎても枯れていない、と映画評を目にして、確かにトンデモない映画を観てしまったと感想を抱くのでした。

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