読まない読書
清水義範の短篇に『主な登場人物』がある。本が手元にないので不正確かも知れず申し訳ないが、確か角川文庫だったと思う。レイモンド・チャンドラーの『さらば愛しき女よ』を読まずに、主な登場人物の人物名とその説明から想像していくという内容になっている。
そう、海外小説の表紙カバーの折り返しや本編の冒頭に載せられているアレからどこまで想像を拡げて楽しめるか、の逸品。内容が合っているのかいないのか、わたし自身もチャンドラーは初読当時未読、そして今もって『さらば愛しき女よ』も未読(『長いお別れ』は読んだ)なので、清水義範の想像が何処まで原作に近いか外れているか、知らない。でも面白かった。
海外小説で主な登場人物表がない大変だ。馴染みのないお名前が続き、文中愛称で呼ばれたりすると、誰だ? となるし、長編だと、もう名前が覚えきれない。ロシア文学、わたしは主にドストエフスキーなのだが、ロシア人のお名前、そして愛称の付け方は沢山あるようで、ソフィアをソーニャと呼ぶのはまだしも、なんでソーネチカにまで変化するとくらくらしそうだ。
ロシア人のお名前は、基本洗礼名・父称・姓となるそうで、姓も性別によっての語尾が変わる。『罪と罰』の主人公の名前がロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフで、その妹がアヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワで愛称ドゥーニャ。このドゥーニャの本名は読書中も、現在に至っても頭に入っていない。
『『罪と罰』を読まない』(文春文庫)という、これまた読まずに読書会という途方もない企画の本がある。(英文学の)翻訳家の岸本佐知子、作家の三浦しをん、同じく作家の吉田篤弘、作家・装幀家の吉田浩美の四人が未読のまま『罪と罰』の読書会というか、勝手に内容を想像するのだ。一応、『罪と罰』を読んでいる編集者が軌道修正の為に中に入っているが、そこはそれ、作家の想像力の限りを尽くして、違う小説が出来上がっているようで、読んでいて面白い。
読まずに読む前に、手掛かりとして物語の最初のページと最終のページを英訳版から参加者の岸本佐知子が訳してきたプリントを読む。加えてエピローグ前の最終章の最後のページが三行しかなくって……、と見せた部分に載っているイリヤ・ペトローヴィチに参加者は大いに反応して、サスペンスドラマに出てくる名探偵か名刑事のような存在かと話が盛り上がる。
主人公の名前は参加者から「ラスコ」と呼ばれ、故郷から出てきて下宿している学生らしい、家賃を滞納している、そこから大家のお婆さんを殺したのかと、微妙な脱線をし始める。本編のあまりの長さから吉田篤弘は三浦しをんに、「この長さで(三浦さんなら)どのあたりで殺人シーンをもってくるか?」などと、それって創作テクニック? な質問が飛び出す。一応、軌道修正の意味合いで編集者が章ごとに二、三回参加者の希望のページをちょこっと朗読してみて、「合ってた!」、「違うみたい」などと更に想像力を働かすことになる。ラスコの下宿先に母と妹がやって来るのだが、はじめ参加者は殺人の後に病気になったラスコがラズミーヒンに連れられて帰郷すると勘違いし、妹の結婚式がどうのこうの始まって、こちらはおいおい『走れメロス』の妹の結婚式と違うよ~と叫びそうになった。
ラスコが殺害したのは金貸しのお婆さんだけでなく、その姉妹のリザヴェータも手に掛けたと判明して、このリザヴェータとイリヤ・ペトローヴィチと関りあるんじゃないかあたりは(『罪と罰』を読んだことのある)こちらは「あはははは」となるし、リザヴェータとソーニャとの関りの指摘には鋭さを感じる。スヴィドリガイロフはスベと呼ばれ、三浦しをんからヴィゴ・モーテンセンがいいと勝手に配役された。
最終的に参加者は『罪と罰』本編を読んで答え合わせの座談会を行って締める。手塚治虫が漫画化した作品にも言及されて、かなり充実した内容。『罪と罰』を読んだ人にも、読んでない人にも面白い本だ。
『『罪と罰』を読まない』初読の時に感じたのは、本編の小説よりも江川卓の『謎とき『罪と罰』』(新潮選書)の印象に影響されている自分に驚いたことだ。何しろ『罪と罰』本編は長くて重いので、初読での感動を再び得たくてもなかなか手が伸びず、お手軽に江川卓の『謎とき』シリーズを読んでしまう。時間が取れたら、うん、本当に時間があったらきちんと本編を読もうと、何度か目の決意をするのだった。
ラスコーリニコフ、十九世紀半ばの大学進学者のことを思えばかなりのエリート意識があったのだろう、現代の目から見れば意識高い系と揶揄されても仕方ない所はあるのかも知れない。斎藤孝の『ドストエフスキーの人間力』(新潮文庫)で「過剰に「不意」なラスコーリニコフ」と「全編が不意のオンパレードだ」と記している。『『罪と罰』を読まない』でもワガママ、周囲を顧みない突然の行動をする、など評される、一筋縄ではいかない、欠点の多い若者だ。それでも周囲はかれを見捨てない。母や妹のみならず、友人やソーニャ、捕らえる側の官憲も、そして思惑の読みにくい、うさん臭さ満点のスヴィドリガイロフまでラスコーリニコフには手を差し伸べずにはいられない。
主人公だから? 主人公無双の話じゃないんだけどね。
我が儘で勝手な面もあるけれど、妙に優しい所もある。ペテルブルクの街で乱れた恰好で呆然とした様子で歩く少女を見付けたラスコーリニコフは、少女の後を男が見ているのに気付いて、巡回中の警察官にお金を渡して少女の家まで送っていってやれと頼む場面がある。性暴力に遭ったらしい女性が更なる被害に遭わない為の配慮だ。街娼 (ソーニャではない)に声を掛けられての遣り取りも手慣れているのか憐憫の情があってか、何もしないでお金を渡している。家賃を滞納し、街行く人からお金を恵まれてしまうくらいラスコーリニコフはよれよれの姿をしている。そんな中でも潔癖さと誇り高さを失わず、ゆえに大きな思想を抱く。殺人は許されない罪であるが、非凡人がどうのこうのという割にはナポレオンのしでかした行為に及ばない。粗削りで多面性のある人間の複雑な動きにだんだんと目が離せなくなっていくこと請け合いだ。
それにしても未読の名作を読まずに読書会、面白そうだし、やってみたいなあ、なんて羨ましく思う。
ラスコーリニコフのフルネーム、ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ、江川卓の『謎とき『罪と罰』』によると、ロジオンはギリシア語の薔薇 (ロドン)に由来し、父称のロマーノヴィチは父親の名前がロマンでローマ人を意味する言葉、姓のラスコーリニコフはロシア語表記だと”Ρ(エル)”から始まる、”Poдиoн Ρoмaныч Рacкoльникoв” 。(ロシア語は一丁字もないので間違っているかも。ごめんなさい)英語表記だと”Raskol’nikov”となるらしい。薔薇もローマも英語表記は”R”で始まる。ラスコーリニコフのイニシャルはロシア語表記だと”PPP”になるが、英語表記だと”RRR”になる。ドストエフスキーが主人公の洗礼名を薔薇に因む名前にしてまでイニシャルを”PPP”にこだわったかの考察は江川卓の『謎とき『罪と罰』』に詳しい。
わたしが映画『RRR』から『罪と罰』を「ふい」に連想した理由である。




