白い虎
映画『ザ・ホワイトタイガー』を観そびれたので、原作小説の『グローバリズム出づる処の殺人者より』(アラヴィンド・アディガ著 鈴木恵訳 文藝春秋)は図書館から借りた。原題は『The White Tiger』。主人公が中華人民共和国の首相に宛てた手紙をしたためる語りで物語は幕開ける。
中華人民共和国の首相の温家宝がインドを訪問するとラジオニュースで聞き、温家宝がインドの起業家に会い、その成功について聞きたいと要望しているというので、それならば自分がお教えしましょう、と筆を執るのだ。
冒頭から皮肉で溢れている。この小説の発表は2008年だ。インドはIT産業の発展で注目されているが、こと生活面に関して、我々はどのようなニュースを聞いているだろう。宗教上の衛生観から敷地内にトイレを設けず、用を足すのに敷地から離れた空き地の茂みや川原っぷちに行かなければならない、男尊女卑が強く妊娠中に超音波検査で胎児の性別が判明すると女児を中絶するを長年続き男女の人口差が大きい、女性の人数が少ないのに女性の地位が上がっていないので強姦殺人や名誉殺人、アシッド・アタックが問題になっている。
主人公は子どもの頃、“ムンナ”と呼ばれた。しかしそれは“男の子”の意味で、学校の先生から“バルラム”と名付けられ、以降この名前を使い続ける。学校の教師は、政府からの支給金を学校の設備や生徒たちの給食に使わず懐に入れている。教師の給与が支払われていないから、とあっさり理由が述べられる。抜き打ちでやってきた視学官は、ロクな授業が行われない中で、バルラムのしっかりした受け答えすから優秀であるのを見抜き、「ホワイト・タイガー」と呼び、奨学金を得てきちんとした教育を受けるべきだと言ってくれる。しかしそれは叶わなかった。父はバルラムを学校に行かせ続けたいと望むのだが、祖母はそれを許さない。男尊女卑で家父長権が強いと、家父長の母が誰よりも発言権を持つようになる。家父長にとって妻も子も次を求められるが、唯一人産みの親だけは掛け替えが利かない。母親は息子を自分の味方をするように育てるし、生活に密着した存在だから尚更頭が上がらない。従姉の結婚させるのに持参金が必要で借金を負った。家刀自にはバルラムの教育の成果を待っている暇はないのだ。“ハルワイ”というファミリー・ネームは菓子職人のカーストに属していると説明されていて、バルラムと兄は茶店でせっせと働くことになる。父は継ぐべき店をほかのカーストに奪われて人力車夫をしており、家族の為に働き続け、結核を患い、医者がいつ来るから知れない病院で息を引き取った。
無知ゆえに現状に従い、家族への情で身動きが取れなくなっている父や兄の姿があり、主人公もどうにもできず、声にならない憤りに充ちている。
茶店の客のお喋りから(文字通りの耳学問でバルラムは世間を学び、世渡りを考える)、自動車の運転手になれば高給取りになれると、頑固な祖母に稼ぎのほとんどを渡すと約束して、車の運転を覚える。勿論、自動車学校に行ったのではない。
バルラムは運転術を覚えると、自ら運転手に雇ってくれと言って回り、バルラムが“コウノトリ”と呼ぶ郷里の地主の家に雇われる。コウノトリの家ではマルチ・スズキとホンダ・シティの二台の車を所有しており、既に運転手も一人いる。(わたしは自動車の車種に詳しくないのだが、ホンダのシティは所有者が後部座席に座り、運転手に運転させる高級車なのか?)使用人は使用人、専門で一つのことだけするという雇われ方はしておらず、バルラムはコウノトリの足のマッサージをしたり、飼い犬の世話をしたりと忙しい。コウノトリの息子たち、なかでも二男のアショクはアメリカ合衆国で教育を受け、そこで知り合った女性と結婚して連れて帰ってきている。アメリカ仕込みの考え方のアショク、またヒンドゥー教徒ではない、アメリカ育ちの妻ピンキーはインド方式に戸惑う姿を見せる。
アショク夫妻はデリーに引っ越し、バルラムもホンダ・シティと共に付いていく。アショク夫妻は素晴らしいマンションに暮らし、バルラムは近くの使用人たちが使うおんぼろな集合住宅に住む。たとえゴキブリの巣であろうとも大部屋で雑魚寝するよりも個室がいいと、個室を選ぶ。使用人は雇い主からブザーで呼び出され、或いは日参して仕事をする。運転して雇い主をぴかぴかのショッピングモールやホテル、レストランに連れて行っても、運転手は中に入れない。車の中か、近くのほかの場所で時間を潰して待っていなくてはならない。待っている間に勝手にドライブをしたり、車外の気温が暑かったり寒かったりしてもエアコンを掛けたりできない。
ある夜に酔った夫妻がバルラムを運転席から下ろし、ピンキーが運転する。しかし、とんでもない事件が起こった。不祥事のもみ消しに、多額の金で使用人が雇い主の罪を被るのはこの国ではありふれていると主人公は語る。
主人公バルラムはインドの最大の発明は“鳥籠”だという。
人々は生まれながらに鳥籠の中におり、鳥籠で生きる。鳥籠はカーストの上の人間にも存在しており、アメリカ留学し地縁と賄賂ばかりのやり方に疑問を感じるアショクも遂に逆らえない。バルラムは厳しい現実に打ちのめされ、馴らされているが、虎は鳥籠を破る力を秘めている。いつか爆発してしまうだろう。
バルラムは「白い虎」と呼ばれるに相応しかったのか。その答えは手紙の受け取り手の温家宝にも出せないだろう。また読者も安易に善悪で糾弾できない。それまでがあまりにも息詰まり、読んでい て苦しくなってくる。かといってバルラムに全面的に感情移入できない難しさがある。
インドに仕事をアウトソーシングしているアメリカとこの国は違うと抗弁できるだろうか。給与水準が三十年前から伸びていない、格差が拡がっていると報じられ、平等より閉塞を感じるこの国がより進んだ民主主義国だと誇れるだろうか。
よく評論や感想文で、この物語の主人公は「私」の謂われ方がある。バルラムもまた、「私」であり、あなたの「隣人」にいる。