“tale”と“tail”
女性活躍推進とか、女性が輝くとか、わたしにはよく解らなかった。つまりは女性も男性と同等に働いて、同等の所得で税金を納めて欲しいということなのだろうか。その上で子どもを二人以上出産して欲しいというのなら、かなり難しい。
昔は五人や六人のきょうだいが当たり前だったなんて発言もあるようだが、昔ってどれくらいの前のことなのだろう。昔と今を一緒に論じられないし、昔を持ち出すなら、昔だって一人っ子もいれば子のない夫婦もいて、生涯独身の人だっていた。そもそも昔は乳幼児の死亡率が高かった。検索してみると、調査機関や統計の取り方で差があるようだが、おおむね昭和高度成長期まで死亡率が高く、だんだんと減っており現在日本の乳児死亡率は極めて低い。
合計特殊出生率の「1.57ショック」が平成元年、1989年のことである。この頃生まれた女性たちも30歳を超えてしまった。少子化であるとともに、母となれる体力のある女性が減りつつある。
「1.57ショック」のニュースが大きく取り上げられてから少しして、とあるSF小説が話題となった。『侍女の物語』(マーガレット・アトウッド 斎藤英治訳 早川書房刊)で、近未来、女性が子どもを産むための役割を負わされて「侍女」と呼ばれるといった内容で、映画にもなった、と聞いた。当時20代だったわたしは設定に忌避感があって、本を手に取らなかったし、映画も観なかった。最近になって『侍女の物語』の続編が書かれた、配信チャンネルでドラマ化されたと再び話題になった。
こちらのサイトで以前「CAGELING」という話を投稿した。この話を書いた時に『侍女の物語』は全く頭になかった。これは人類よりも高位の存在があって、人類を家畜か愛玩動物のように管理するテーマのSFジャンルからの発想だ。若い女性が一つ所に集められて、突然見合いの状況になったり、眠っている間に身体に触れられた感覚になったりする。理由も解らなければ将来どうなるかも解らない、自分でも中途半端な終わり方にしてしまった。
新春、NHKのEテレ『100分de名著 フェミニズム』で翻訳者の鴻巣友季子が『侍女の物語』を紹介していた。そこでの会話も含めて興味が深まり、この作品を読んでみなくては、と思った。
『侍女の物語』の原題は“The Handmaid’s Tale”、主人公である一人の女性が自分の境遇と取り巻く環境を語る。時系列が行ったり来たりと曖昧さを意図した語り口、終章に「歴史的背景に関する注釈」と更に未来の学者が発掘された史料とともに物語世界を如何にもな感じで説明する。
アメリカ合衆国で軍事的なクー・デタが起こって大統領が殺され、憲法が停止、社会が変わる。クー・デタの主導はキリスト教の原理主義者だ。主人公は図書館勤めの女性で、既婚の男性との恋愛の末に結婚、一女を授かっている。買い物をしようとしたらカードが使えない。女性名義の口座は凍結され、家族の男性の物とされる。小物や雑貨一つ買えなくなったとショックを受ける主人公と、財産は僕の名義の扱いになったんだからと危機感の薄い夫は対照的だ。文中はっきりしないが、最終章の解説で再婚や婚姻によらない関係はすべて姦通とされて男性側を逮捕しはじめたとある。主人公一家は逃亡を図るが、捕らえられ、離れ離れになり、主人公は出産能力のある女性として再教育されて「司令官」の「侍女」にさせられる。「妻」は別にいて、主人公は「侍女」であって「妾」や「愛人」ではない。性行為は子孫繁栄の為になされるのであり、快楽を求めるのはご法度。虚飾も罪であり、女性たちは決められた服装しかできないし、化粧品もない。「侍女」は「妻」に後ろから体を支えられる恰好で横たわり、「司令官」である男性を受け入れる。着衣のまま、最低限の箇所のみはだける、脱ぐだけで愛撫も囁き合いもなし。競走馬の種付けのごとく。
物語の冒頭に『旧約聖書』が引用されている。ヤコブの妻ラケルが子のないのを苦にして、夫に自分の侍女の子を儲けてくれ、その子を自分の子にすると訴える一節だ。なんつーかまあ、聖書の中だけでなく身分ある男性の正妻が子どもができない、いても年を取って新たな子を儲けられないから自分の侍女なり息のかかった女性に夫の子を産むよう指示するといのは歴史上幾らでもある。「媵」という漢字がそれを示している。
キリスト教の七つの大罪のうちに「色欲」があるし、心の中で思うだけで姦淫の罪を犯したことになるし、「産めよ増やせよ」以外の性行為は罪深く、着飾るのは「傲慢」の罪になるしで、宗教の原理主義を貫こうとすれば禁欲、清貧に徹さざるを得なくなる。女性は女性らしさをすべて覆うような服装だし、教義上当たり前で水商売は一切なくなった。
女性に読み書きを禁止し、家庭が女性の居場所と「妻」(指導者階級の妻もいればそうでない者たちの「便利妻」もいる)、「女中」、「侍女」がおり、「不完全女性」がいて、「不完全女性」は食糧生産現場の肉体労働か汚染物質の(使い捨ての)清掃員をやらされているらしい。
女性から権利を取り上げ、人工妊娠中絶手術を施術していた医者を次々に絞首刑にして、ギリアデ国の男性はさぞかし規律正しく信心深い生活を送って範を垂れてくれているのだろう。
しかしそうもいかないのが人間なのである。主人公の「司令官」は「妻」の目を盗んで彼の女を書斎に呼び出してゲームや親しい会話をしようとするし、けばけばしい古着と化粧道具を差し出してナイトクラブに連れて行く。クラブで主人公は親友で、再教育の場から逃げ出したはずのレズビアンの親友モイラと再会する。モイラはクラブで働かされている。「司令官」たちは禁止されている遊興場を自ら作り、娼婦(にしたてた女性たち)と遊んでいるのである。
不妊の原因は女性にあり、男性は関りないとするギリアデの中で、医者や「妻」たちは男性不妊に気付いている。とある「侍女」の産んだ子の本当の父親は「司令官」ではなく、定期的な健康診断を行う医者だと女性たちの間の公然の秘密であり、主人公は「妻」から子作りの為に運転手のニックと通じるように命じられる。
主人公は抵抗に疲れてしまったような感がある。それでも夫はともかく、幼い娘はどこかで生きているだろうと思っている。希望はあるのだろうか? 希望を抱いて失望を味わいはしないだろうか?
昨年、アメリカ合衆国の連邦最高裁で人工妊娠中絶手術が憲法違反と判決を出した。絵空事のディストピア小説と消費できないような、昏い未来があるのかも知れない。
“tale”と“tail”、発音は同じでも意味は「物語」と「尻尾」と違う。終章で解説する学者が“tale”と“tail”に引っ掛けた冗談を口にする。それでは主人公があまりにも惨めすぎる。




