人生は選択の連続
わたしが二十歳になるかならないかの頃、「1.57ショック」がニュースで大きく取り上げられた。合計特殊出生率とかいう、わたしには説明されてもきちんと理解できないものの計算の結果、一人の女性が生涯に産む子供の人数が昭和41年(1966年)の丙午の時よりも下回ったとか、なんとか。このままでは人口が減るとかあったが、その時はあまり考えこまなかった。それよりも数年前の中学校の社会の授業で、年金や福祉の問題で現役世代が減り、昔は五人で一人の高齢者を支えたのが近い将来三人の現役世代で高齢者一人を支えるようになると習った覚えがあった。その通りになりつつあるのだ、その程度にしか思わなかった。(検索すると、現在はだいたい二人で一人の高齢者を支えていることになるらしい)
今更慌ててどうするのさ、というのが正直な感想。約四十年前の義務教育の教科書にある通りになり、そしてそれ以上の事態に進みつつあるのは異次元の出来事ではない。
繁殖するのに動物はナーバスになる。環境が悪くなると鶏は卵を産まなくなり、哺乳類は母乳の出が悪くなる。親にストレスがあると育児放棄だってあるし、縄張りが関わると成体による子殺しもある。
人間だって動物の一種だから本能に関わる次元のこと、理性と知恵ですべて克服できると考えているのだろうか?
『母親になって後悔してる』(オルナ・ドーナト著 鹿田昌美訳 新潮社刊)が話題になってメディアに取り上げられたりした。非難の声もあるが、同意の声もある。まずもって後悔した母親が子どもを虐待したり捨てたりした話を集めた本ではない。結婚し(結婚していなくてもいいのだが)、出産、育児に追われる中、世の中で言う母親像に自分は当て嵌まっていない気がする、子に対する愛情が薄い訳ではない、我が子を愛しているのに自分がすべきことは育児よりも別の事柄と感じ、考えずに入られない女性たちの体験談だ。
資格や仕事、キャリアの中断だったり、彼の女たちの家族が育児に協力してくれないとか、女性自身の資質と努力だけでは解決しない問題も絡み合ってくる。
コストパフォーマンスとか、タイムパフォーマンス、合理性の概念は、妊娠・出産・育児では通じない。
わたしが結婚してから子を持つことの不安を口にすると、「赤ん坊なんて放っといても大きくなるもんだよ」と言った男性がいた。「案ずるより産むがやすし」を言いたかったのだろうか、実際に赤ん坊を放って置いたら死んでしまう。誰かが赤ん坊の世話をしなくてはならない。大方は子を産んだ母親が担う。担うべきだと言う。
どうして泣いているのだろうと赤ん坊を抱き上げたり、おむつを探ってみたり。おむつが濡れていれば交換する。しかし、新しいおむつをあてた途端に粗相をする。おむつも汚れた、大小便でおむつだけでなく肌着も汚したとなると全部着替えさせなければならない。やっと着替えが終わったと思うとまた排泄音をさせる。抱っこすれば泣き止むが、布団に置くとまた泣き出す。ひっきりなしに泣くのでお乳が足りないのかと焦る。お乳を飲ませた後ゲップをさせないとお乳が逆流して窒息するといけないので、ゲップをさせようとするが首が座らない乳児の背中を上手く縦にできない。やっとゲップをさせたらお乳も一緒に出てきて口元どころか胸元まで濡れて、またお着替えだ。昼夜問わず、新生児期はその繰り返しで無限に続くような気がしてくる。
首の座る頃に昼夜の区別が付きはじめて夜中きちんと眠る乳児もいれば、相変わらず三、四時間ごとに授乳をしなければならない乳児もいる。分娩後から世話する母は慢性の寝不足だ。赤ん坊に少しずつ表情らしいものが出てきて、可愛らしいと温もりと乳児の知能の発達を感じる。それくらいしか慰めがない。
幼児になっておむつを外してからもおねしょをしたり、トイレを汚したりはあるし、食事にもムラがあって、好き嫌いを言い出す。幼児は好奇心の塊でいつ悪戯をしでかすかも知れないし、危険に近付いたり、悪意ある大人にさらわれたりするかも知れないから子どもを一人にできない。第一反抗期をイマドキはイヤイヤ期と呼ぶらしいが、そんなものに付き合いきれないとキレたり泣き出したりする親もいるだろう。でもこれは真剣に子育てに取り組んでいるからこそ出てくる悩みだ。綺麗に掃除したと思った瞬間に、玩具を居間の床一面にばらまかれたからって、いちいち怒鳴り散らしていては日々過せない。
子どもに知恵が付いて一人で行動できるようになるまで何年掛かるのだろう。排泄や着替え、挨拶などできるようになる幼児までか、人生の進路をいくらか見定められるようになる十代半ばくらいまでか。或いは就職や結婚を見届けるまで安心できないとするか。
「幾何学に王道なし」なんて学校で言われたが、「子育てに正解なし」だし、ましてや人間に促成栽培は有り得ない。(十で神童十五で才子二十すぎれば只の人というではないか)
事務職の公務員だったわたしは妊娠中の通勤緩和、産休や育児休業、復帰後の短時間勤務に関しては恵まれた。わたしが就職してすぐくらい育児休業ができ、第一子の時は産休明けで仕事復帰したが、第二子の頃には取得者が何人かいたので、職場に多少の気後れはあっても利用した。
女性の少ない、もしくは産休や育休の利用者の少ない部署だと申請しづらい事例は今も残っているのだろうか?
産休や育休の期間でキャリアが中断にされることに危機感を抱く女性もいるだろう。人事評価に関わってくるからと職場で実績を作って、必要な人材と認められるまで出産しないと決めた女性もいるだろう。
人生は選択の連続だ。子どものうちから親から勧められての習い事や塾に素直に行くか行かないか、この学校に進学するかしないか。自分の興味のまま学校を選びたいが、弟や妹がいるんだから私立は駄目とか、そんな学部に行って就職できるのかと親と言い合う。就職先も公務員試験を受けろとか、そんな仕事は不安定だから反対だ、いやこれこそ一生の仕事だ、職業に貴賤はないとか。
成人してからも内定先のAではなく何が何でもBを選んでいたら、あの人と交際していれば恵まれた生活を手に入れられたかも知れないのに、あんな奴と別れられればもっといい暮らしができたのに、相手が妊娠しなければ結婚しなかったのに、Dの親が厳しい人でなければ良かったのに……。〇〇の資格を持っていれば一生安泰と言われたけれど結局宝の持ち腐れになった……、今の地位に満足だけど若いうちに冒険しておけばよかった……。仕合せでも不仕合せでも、人間、自分には別の可能性があったのではと想像する。その一つに母にならなかった場合の人生があるのは不思議でも何ともない。有り得たかも知れない人生、あなただって夢想するはずだ。
生まれてきた子どもは掛け替えのない生命で、子どもの持つ無垢と可能性に希望を抱かない親はいない。ただどれだけ自分の人生をこの子どもの為に費やすか、無事な成長を遂げてくれるかと同等に不安なだけ。不可能と知っていても、子どもには後悔のない(少ない)人生を歩んで欲しいから。




