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後戻りも知らない振りもできなくなった

 井上荒野という小説家の名前は知っていた。しかし筆名の読み方を知ったのは最近。映画『あちらにいる鬼』は観ていない。その前に話題になった『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』(朝日新聞出版)の存在からだ。

『百合中毒』(集英社)は先に読んでいた。妻子を捨てて別の女性の許に行った父が、その女性に去られてしまったと戻ってくる。既に二十五年の歳月が経過していて、父がいない生活が当たり前になっている。今更帰ってこられても迷惑なだけだ。しかし、「罪のない者から石を投げよ」な印象の部分もあり、劇的な解決はない。

 朝日新聞の書評でトミヤマユキコが『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』を評していた。トミヤマヤキコは、山形小説家・ライター講座でわたしが参加した回で司会をしていた。ああ、そうだ、わたしは受けてみたことがないが、井上荒野は山形小説家・ライター講座の常連講師じゃないか。この本を読んでみようかと、地元の図書館で調べ、貸し出しの予約をした。で、この年末、やっと借りることができた。

 表紙を開いて、第一章が「現在」とある。目次を見ると「現在」、「七年前」、「現在」、「二十八年前」、「現在」と五章になっている。動物病院の看護師の柴田咲歩の視点の語りで始まり、すぐにカルチャセンターの小説講座で講師を務める月島光一に変わる。

 時系列も視点も細かく変わると読みづらくないか? と不安になった。

 しかしその不安はすぐに払拭された。作者は巧みに語り、柴田咲歩は夫との関係は良好なのに子どもを作ることや愛情の示し方に、何故一種のおそれを抱くようになったか、感じ取れるようになっている。

 月島光一の方は元出版社の編集者で、退職して、現在は小説講座の人気講師、教え子が二人芥川賞を受賞している。有望な小説家の卵を見付けると、とことん指導する。相手が女性だとその熱意を性関係まで持ち込もうとする、そんな男性だ。現在の講座で有望な女性がいて、呼び出し二人きりになろうとする。三十代の女性が呼び出しに応じながらも、「困る」と訴えると苛立つ。

 月島は妻子持ちだ。妻は十五歳年下の夕里。かつて文芸誌の新人賞の受賞者で、月島と出会ったのが運の尽きだった。当時大学生だった夕里は月島の子を妊娠して結婚、大学を卒業できたものの、就職せずに家事育児に専念するまま、小説が書けなくなった。夕里は女としても小説家としても月島から必要とされなくなったと虚しさを抱えて長年過している。そのくせ、月島は夕里に講座の参加者の作品の下読みや評価をやらせる。

 ここまででも充分月島嫌な奴に見える。月島は講座の優秀な生徒が女性だと、妻にしたようなことを指導の名の下繰り返す。夕里とは結婚して責任を取った、程度で、小説家としての将来を潰したのではないかなんて、微塵も感じていない。柴田咲歩――旧姓九重――も月島の呼び出しに応じて痛みを味わった一人だ。

 仕方ないじゃないか、女の人は妊娠出産があればそれに専念しなければならないし、咲歩だって夕里だって小説を書くための努力や覚悟が足りなかったんだろう? 月島に呼び出された女性だってカマトト言っていないで、才能を認められたのなら積極的にならないとチャンスを逃すぞ、と言いたくなる人もいるかも知れない。

 だが、咲歩が小説はおろか文章を綴ることさえできなくなり、自分が汚れた物のように感じるのは、小説家になろうとする情熱だけの問題なのか?

 月島に個人的に呼び出されるのは嫌だと言う女性がいて、目を掛けてもらえるなんて幸運じゃないの? 困るだなんて自慢と違うのかしら? と言い切る年配の女性がいて、咲歩が月島をセクシャルハラスメントで訴えたのを知って、嫌ならどうして呼び出しに応じたんだとSNSで月島を擁護するような発言を載せる若い男性がいる。また月島が女性の教え子を側に侍らせ、個人的に呼び出そうとするのを目の当たりにしてきた若い男性はセクハラの告発を知って、やっぱりあれはおかしなことなのだとすっかり失望して講座を退会する。世間の反応はそれぞれだ。

 月島の教え子で芥川受賞者の一人である小荒間洋子は、月島から果たしてどのような扱いを受け、どう感じているのか?

 咲歩の訴えで月島を非難、擁護双方の声も上がる中、小荒間洋子に月島と対談してくれないかと依頼が入る。騒動が起こってからインタビューなどに一切答えてこなかった小荒間だが、対談に応じる。対談に先んじて月島から電話連絡が来る。

 月島の言葉から小荒間は昔を思い出す。取材旅行に共に出掛けたこと、月島が部屋を一室しかとらなかったこと、月島が迫ってきて関係を持ってしまったこと。小荒間は嫌だった、だが抵抗しきれなかった、それ以降は二人きりになるのを避け続けた。それを大人の関係だの、小説的関係だの、月島は合意があったと信じているのだ。

 そんな過去を乗り越えたかのような小荒間にしても傷となり、痛みはいつまでも続いている。

 才能ある男性から、才を認められたら女性らしさの点で体まで差し出すは当たり前なのか? これは性別が逆であろうと同性であろうと、人の営みがある限り存在し続ける問題だろう。

 また創作をする上で、夢やら欲やらのほかに、己の醜さにも目を背けず直視し、それを汲み上げ形にする勇気を持てるかを、同時に発している。

 力強く、そして繊細な心の内まで描く一冊だ。

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