映画の『燃えよ剣』を観た
新撰組や司馬遼太郎の『燃えよ剣』をご存じない方には何を書いているのか不明な内容になっています。ごめんなさい。
いつだったか、岡田准一が石田三成役の映画『関ヶ原』を観ようと良人が言った。地上波の放送を録画したのだったか映画の配信チャンネルだったかで『関ヶ原』があるというので、そうしましょうと、一緒にテレビの前に座った。
再生を開始すると、冒頭現代風――と言っても戦前くらい――の服装をした子どもとお年寄りがお寺で昔話をしている場面から始まっている。
原作小説は未読だったが、司馬遼太郎の語り口ならこういった始まり方もあるなあと眺めていたが、司馬遼太郎の小説に馴染みのない人は、間違えた作品を再生したかと驚いた。再生を停止するなとわたしが言っても、止めて確認した。
昔話から石田三成が豊臣秀吉にお茶を淹れた逸話だと解り、そこから映画は更に進んで三条河原で豊臣秀次の妻女の処刑の場面に移っていった。全てを観終わって、良人は何やら消化不良の感想を抱いたようだった。石田三成が報われない男だったって話でいいんじゃない? とわたしは言った。
その後同じ原作者、同じ映画監督、同じ主演俳優の『燃えよ剣』を観に行きたいと良人から誘われた。岡田准一の主演はいいが、ヒロインのお雪を演じるのが柴咲コウか、とわたしはためらった。柴咲コウは実写映画の『どろろ』でどろろを演じた印象が強いのだ。
だけど食わず嫌いは良くないし、折角良人が誘ってくれだのだ、と映画館に出掛けた。
結果、良人よりわたしの方が楽しんだ。
映画の大きな画面ならではの映像、京都の寺でのロケ、情景に奥行と広さを与えている。血しぶき上がる剣劇場面には驚いたけれど、足払いも使って敵に当たるのは原作通り。舞踊のようなスマートなチャンバラではなく、肉体のぶつかり合う果し合い。爪先立ちでちょこちょこと歩く土方歳三に、近藤勇はもっと堂々と歩けと注意するも、なかなかその癖が抜けない。いつでも飛び掛かり、走り出せるような隙のない、ある意味落ち着きのなさが逆に土方という男に凄みを帯びさせる。芹沢鴨が考え出した浅葱色のだんだら羽織を嫌がり、土方は別の制服を作ろうと、知り合った女性のお雪が絵を描くので、依頼する。沖田総司もお雪を知り、そのうえで土方のヘボ俳句をからかってみせる。
沖田総司が儚げで明るく振る舞う姿が、従来のイメージ通りとはいっても、良いとしか言えない。井上源三郎にほっとさせられ、酷な場面が続くこの映画の救いの一つになっている。近藤勇の大器なんだろうが、どこか抜けているようで、土方と好対照。山崎丞が暗い目をしてぶつぶつと喋るのを見ると、京極夏彦の『ヒトごろし』に出てくる山崎丞を連想させる。七里研之助、要所要所でいい見せ場を作る。
白状すると柴咲コウのお雪は良かった。原作ではどのように暮らしているかあっさりとした説明しかないが、お雪は絵を描きながら呑気に後家の生活をしているのではないと、映画に描かれている。賃仕事をこなした先での情報を土方に提供していて、あれ、これは原作小説になかったようだけど、こういうのもいいよね、と思った。お雪は新撰組の為に救護所を設けて率先して手当てをし、函館において病院で高松凌雲(だと思う)と共に働いた。
映画『燃えよ剣』の語り手は土方歳三自身で、一人語りなのかと思えばきちんと聞き手がいて、質問したり、話を促したりしていた。服装や部屋の調度から函館であり、聞き手は日本人通詞、それからフランス人士官ブリュネである。
函館戦争の描写は最後の部分しかない。ブリュネが函館を離れなければならない時に、ブリュネと土方は拳銃と刀を交換する。
最後の戦いに臨む土方の姿に誰もが息を呑むだろう。騎馬姿に、ブリュネと交換した拳銃を手にしている。
「新撰組副長は、斬り込みにゆくだけよ」
新政府軍の銃弾に斃れた土方は戸板に乗せられ、お雪の許へ運ばれた。
新撰組の副長、土方歳三の死に、溜息を吐くばかりである。