乗り越えるべき壁
良人と映画『犬王』を観に行って、予告で『エルヴィス』が流れ、良人から次にこれを観に行こうと言われ、わたしも興味そそられていたので、肯いた。『犬王』の中で、旗竿にカブトムシの絵を描き、舞台で観客とドンドンパンの手拍子とコールアンドレスポンスを行い、エルヴィスをすっ飛ばしてビートルズとクイーンだ、と呑気な印象を持った。
七月に映画『エルヴィス』を夫婦で観に行った。観終わって、あまり感想を言い合わなかった。お互いにエルヴィス・プレスリーについて詳しくなかったこともある。『やさしく愛して』や、シャンソンの『愛の喜び』をアレンジした『好きにならずにいられない』、クイーンがステージでよく歌っていた『監獄ロック』、エルヴィス・プレスリーの曲といったらこれくらいしか知らなかったのである。
プレスリーや洋楽に詳しい人たちには楽曲がきちんと流されていないと不満が残る映画だったらしい。
人間ドラマにしても、史実を辿るとこんな感じになっちゃうのかなあ、とどこか腑に落ちない部分があった。
その後『映画は父を殺すためにある 通過儀礼という見方』(島田祐巳 ちくま文庫)を読んで、ああ、これだったかと納得した。映画『エルヴィス』には通過儀礼がない、通過儀礼と描かれてもいいエピソードが軽く扱われているので、エルヴィス・プレスリーが悩み、葛藤を抱えているのは伝わっても、それを乗り越えて成長する過程が見えない、語り手であるパーカー大佐の所為か観客に伝わってこない。だから映画の感想が消化不良なのだ。
以前、毒親をテーマにしたネット記事でエルヴィス・プレスリーを見掛けたことがあり、詳細を忘れたが、円満家庭で育っていないのは覚えていた。映画でもその辺は描かれる。父は小切手の不渡りで詐欺の罪で服役して、エルヴィスは母と共に幼少時を南部の黒人の居住地で過した。そこで黒人の教会音楽に触れ、ブルースを知る。一家の切り盛りは母親が担い、父親は出所後もほとんど稼ぎらしい稼ぎもなく、第二次大戦後の強きアメリカの理想的な父親像からかけ離れている。夫よりも息子を愛する母は、出産の時に亡くなった双子の一人ジェシーを忘れておらず、エルヴィスに、「あなたはジェシーの分の人生も背負っている。二人分の運を持っている」と語り掛ける。母親の心情として解らないではないが、子どもにしたら堪ったものではない。
レコードを吹き込み、舞台にも立って人気が出始めたエルヴィスに、サーカスの出し物を取り仕切るパーカー大佐なる胡散臭い人物が目を付け、マネージャーに就任する。興行に関しては目利きなのだろう。売り込み方も巧みだが、ある程度売れ始めたらエルヴィスにとってはもう害毒でしかない。中毒性の劇薬だ。何せ売り上げの半分が自分の取り分で、エルヴィスの都合はお構いなしに勝手にスポンサーやら仕事やら持ってきて、有無を言わせない。エルヴィスの父親をプロダクションの社長とするが、これもまた父親の管理能力のなさに付け込んでいるようにしか見えない。
苦労続きの母親を喜ばせ、贅沢をさせてやりたい、俺が家族の面倒を見る、と希望を抱くエルヴィスは南部の世間知らずの若者であり、パーカー大佐は海千山千、自分の得になるように操ろうとする。
黒人のものとされていたジャンルの音楽を白人のエルヴィスが歌う、それも腰を揺らして踊りながら。当時のアメリカ合衆国の白人社会では非難され、しかし、ロックンロールの興隆につながり、熱狂的な人気となる。
社会への影響を危険視されたエルヴィスは徴兵されて一時本国を離れてヨーロッパで従軍する。その間に未来の妻プリシラに出会い、母親は酒浸りで亡くなる。母親の喪の為に帰国し、父親と涙に暮れる姿が映し出される。過干渉の母がいなくなり、異国の地での恋は冒険や成長を促すエピソードのはずだが、パーカー大佐の語りで恋愛は厄介だくらいで済まされる。
周囲の音楽関係者、それもプロデュース側の人間はパーカー大佐と手を切れと忠告するし、エルヴィス自身もその必要を痛感している。だが、何故かエルヴィスはパーカー大佐を切れない。妻も娘も大事な拠り所であるはずなのに、エルヴィスは何故かパーカー大佐の言うがままになってしまう。
通過儀礼としての父殺し、実際に殺す訳ではないのはご承知の通りで、エルヴィスの実父は弱々しくて乗り越えるよりも保護の対象だ。疑似的な父のパーカー大佐はエルヴィスを愛情から縛り付けているのではない。金の卵を産む鶏を手離したくないだけだ。パーカー大佐を馘にして、自分の思う通りの活動をしていってこそエルヴィス・プレスリーの人生が自分自身のものになる、はずなのに、そうならない。
エンタメ満載のアメリカ映画にしては、主人公が壁を壊せないで自滅する、珍しい作品なのかも知れない。人生、アメリカのヒーロー映画のようにはいかない、と言われればその通りだけどね。




