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虎ノ門事件

 七月の安倍元首相の狙撃による暗殺事件でわたしが思い出したのは、大正時代に起きた「虎ノ門事件」だった。

「虎ノ門事件」については井上章一の『狂気と王権』(紀伊國屋書店)と岩田礼の『天皇暗殺 虎ノ門事件と難波大助』(図書出版社)からの知識しかない。近年出版の『昭和天皇実録』(東京書籍)は読んでいない。

「虎ノ門事件」は大正十二年(1923年)の十二月二十七日の出来事だ。その年の九月に関東大震災が起きたばかりである。当時、皇太子で摂政宮であった裕仁親王が国会の開院に臨席する為自動車で移動中、虎ノ門の通りで沿道から飛び出してきた人物に狙撃された。銃弾は命中しなかった。車窓のガラスが割れて同乗していた侍従が破片で負傷した程度で、摂政宮は無傷だった。犯人は直ちに取り押さえられ、連行された。

 明治憲法下で、紛れもない現行犯、犯人の難波大助は大逆罪で裁かれて、死刑となった。裁く側は、将来を悲観したとか、精神的な錯乱があったとか引き出そうとしたが無駄に終わり、改悛の色は一切見せなかった。

 難波大助の思想背景と犯行動機は置いておいて、かれの父親は山口県選出の衆議院議員だった。所謂地方の名士という仁で、息子の逮捕に即日辞表を提出し、山口の自宅に籠った。

 明治の元勲を出した長州で大逆の罪人が出たと、山口県での騒ぎも一通りではなかったという。難波大助が狙撃に使用したステッキ銃は、元々は伊藤博文が護身用に所持していた物で、伊藤の死後親戚の手を転々として、最終的に難波家に渡ったと伝わっている。

 難波大助の父、作之進が職を辞した後に選挙区を引き継いだのが松岡洋右で、戦後は岸信介や佐藤栄作が続いたそうだ。

 また、狙撃事件の時、沿道の警備は車道に背を向けておらず、見物人と同じ方向を向いて自動車の移動を見ていた為に、難波大助が車道に出た際の対応が遅れたのだという。

 自分の中で上手くまとめられないが、歴史とは何らかの形で繰り返される。いや、繰り返しているかのように見える事象がある。

「虎ノ門事件」と先月に起きた事件を安直に並べていけないのは承知である。皇族の行啓と政治家の応援演説とでは警察の対応は違うし、対する国民の感情もまるきり違う。一方は未遂で、一方は完遂だ。だが、警備で後方への注意が手薄だったこと、狙撃犯が標的に近付き発砲できたこと、犯人の動機が大方の予想を超えていたこと。片や衆議院議員、片や京大卒の建設会社社長と名士と呼んで差し支えない父親を持つこと。連想せずにはいられなかった。

 難波大助の共産思想や極左の行動は、どこかしら父親(象徴的な意味での父も含む)への反抗の延長のように思えるが、これはわたしが手にした資料に寄るものなのかも知れない。天皇の赤子であるべき臣民が摂政宮を銃撃しようとしたとは誰も信じたくない、信じられない事柄であったらしく、難波大助の相愛の許嫁が摂政宮の側室に取り上げられたから、恨んで犯行に及んだと憶測が生まれたともいう。

 見たいものしか見ない、信じたいものしか信じない。人は易きに流れ、近くの景色で満足する。大本営発表の意味が歪んでしまったのと同様な例は、今後も繰り返される危うさがある。

 歴史の上で正当な評価を受けたかったら、正確に記録を残していかなければならない。同時代では偏見や利害で冷静に分析しづらく、眼鏡のかけようで見え方が変わる。歴史は後世の人間が評価する。

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