映画 犬王
『オフィサー・アンド・スパイ』は平日に仙台市のミニシアターに一人で観に行った。良人から日曜日に映画を観に行こうと誘われて、『シン・ウルトラマン』と『犬王』のどちらかがいいと伝えた。良人は『シン・ウルトラマン』に興味がなさそうだったが、一応両方の作品を観た家族に感想を聞いてみようとわたしは提案した。両方を鑑賞した下の子は、『犬王』を観たばかりだからと断った上で、『犬王』が面白かったと答えた。それで『犬王』を観た。
古川日出男の原作『平家物語 犬王の巻』(河出書房新社)はまだ読んでいなかったが、別の映画を観に行った時に予告は観ていたので、琵琶であんな音出ないんだけど、面白そうだとは感じていた。
で、実際観に行って、面白かった。
原作でのラストがどうなったかは知らないが、映像と音楽で魅せる内容だ。
映画の紹介や解説サイトで数多く言及されているので、わたしも書くが、主人公の一人の犬王は手塚治虫の『どろろ』の百鬼丸と似ている。親元で暮らしているがほぼ育児放棄の状態で両親から忌むべき存在と無視されている。だが、猿楽一座の父親と兄たちが舞い、唄う姿を見て、異形の身体ながら自らも舞う。犬王は優れた身体能力と朗らかな精神力、創作力がある。舞の技を会得すると、短く歪んだ足がぱっと伸びて、普通の人間の足となった。自らの足で走り、跳躍し、笑いながら都を駆け巡る。しかし、まだ上半身や顔は人を驚かす。
犬王に出会っても驚かない人間がいた。琵琶法師の友一だ。元々は壇ノ浦の漁師の息子の友魚で、父と共にすなどりをして暮らしていた。ある時侍の依頼で平家滅亡と共に海に沈んだ神剣を探し、引き上げた箱を開けた。友魚は一瞬にして視力を失い、父は命を失った。友魚は何故このような目に遭ったか、探る為に彷徨い、出会った琵琶法師に導かれて都で覚一検校の「座」に属し、友一の名を与えられる。
異形の犬王と盲目の友一は、未だ成仏できぬ平家の一門の魂の声を聞くことができ、それを演目として上演しようと、意気投合する。
こっからが尋常でない。
友一は橋の上でストリートライヴをして、宣伝。橋の下に大掛かりな演台を作って犬王は今までにない唄と踊りを披露する。その名も「腕塚」を舞い終わると、両腕がまともな長さに変わった。
大成功を遂げ、友一は覚一の座を抜け、友有と名乗る。友有は髪を伸ばし、女物の衣装をまとい、化粧もする。体をくねらせ、通常とは違うポジションに琵琶を構えて奏でもする。
かぶと虫のマークにドンドンパンのリズム。ビートルズとクイーンへのオマージュがあるようなないような。パンフレットに監督が二人の出会いをジョン・レノンとポール・マッカートニーになぞらえていたからそれもありか? 当時の技術じゃ有り得ないなんて言い切れないとも言っているけど、全部人力でやっていたんだからトンデモナイ手間暇の掛かるステージだと見てとれるので、木戸銭だけでやっていけたのだろうか、心配である。
当時の将軍足利義満の正室の業子も遠目に舞台を観て、夢中になる。義満は大和神楽の観阿弥とその息子藤若(後の世阿弥)を贔屓にしている。能楽はまだ猿楽と呼ばれ、まだ夢幻能は完成されていない。
犬王の父は苛立ち、嫉妬し、義満が南北朝を統一しようとしているのに秩序を乱すのではと危険視しはじめる。
芸能は自己主張であり、プロテストの象徴でもあるが、後援者あってのものである歴史が長い。犬王の才を認めた藤若は義満のお稚児さんだったらしいし、老年に至って佐渡に流されている。権力者のご機嫌次第だった。
犬王と友有がどこまで自己の表現を求め続けたか、その意気込みを持続し続けられたか、それは観てのお楽しみ、となる。
わたしは犬王と友有の声を務めた二人の唄は上手だったと感じたが、良人は友有の方に難を感じたらしい。誰かと尋ねた。
「え~と、森山未來って東京オリンピックの開会式で踊ってなかったけ?」
「……」(思い付かない)
「え~と、NHKドラマで、料理屋している女の子のとこにやって来る「時計」殿とよばれてたお侍さん、あと、くしゃがらくしゃがら言ってた人」(年齢の所為で固有名詞がすぐ出てこない)
「ああ、甘い物が好きで、料理屋に夜になってから来てた奴な。あれは舞台俳優なのか?」
「そこまでは知らない」
琵琶をコントラバスのように弾くのはどうかなあとか、エレキの音が出るのはなあとか、お互い細かい所が気になった、のでした。
時代考証は時代考証、きちんと調べている上での表現の重視。ライヴ感満載のロックンロールで高揚できる映画。